「そんな事はありません! 千尋さまがいつも先回りをして私を大切にしてくださっている事を私はよく知っています! ですが多分それは皆もそうなのです……やり方はそれぞれ違うけど、私を守ってくれてる……私はそれがとても嬉しいのです」
「……そうですね。やり方はそれぞれで、皆もこの子を楽しみにしていますよね」
その言葉に千尋はハッとした。鈴の言う通りだ。何も千尋だけが鈴を心配している訳ではないのに、皆に自分のやり方を押し付けてしまっていたのだから。
千尋は鈴を抱き寄せて頭頂部に軽くキスをし、ゆっくりと力を流し込む。
ふと見ると鈴は宣言通り千尋の力を受け入れながら嬉しそうな、幸せそうな顔をして目を細めていた。
その翌日の事である。千尋は久しぶりに職場に足を運び、流星の執務室にやってきていた。
流星は千尋が持ち込んだ書類にサッと目を通してため息を落とす。
「これに関しては完全に他部署の怠慢だと思うよ。ていうか君達は家に居たほうがはるかに仕事が早いって事がよく分かるなって話なんだけど」
「そうでしょう? 私はこの苦情をどう受け取れば良いのでしょうか? 私への賛辞だと思っておけば良いですか?」
千尋が持ってきたのは自分と梨苑の元に届いた、違う職場から届いた苦情の山だ。どれも内容は殆ど同じで、仕事が早すぎるからもう少しこちらに余裕を持たせて欲しいと言う、何とも難解なものだ。
「これは梨苑の分もあるんだよね?」
「そうですよ。私は梨苑からの分を添削しているだけです。だから仕事が早いのは梨苑の方なのですけどね」
梨苑は桃紀の所で働いていただけあってとても優秀だ。
「いや……君たちは異常なほど早いよ、どっちも。まぁこれは一応もらっとくけど殆どがただのやっかみだ。無視していいよ。君達は自由に好きなだけ仕事して」
「もちろんそのつもりです。それからこちらが今週の報告書です。実際の所、私や梨苑はこちらの方が向いています。ですが、そうでない方もいるだろうというのが私の見解です」
「だろうねぇ。まぁでも良い機会かもしれない。一度全員にやらせてみて篩にかけようか」
「高官も高官補佐も切磋琢磨してこそです。今までは家柄や出自がものを言いましたが、これからはそうはいきません」
千尋は抗議文の束の上に手を置いた。梨苑の元に届いた抗議文の数は千尋の所に届いた物よりもずっと多く、その大半は梨苑と同じ補佐から達のものだった。
中にはかなり悪質な物もあり、仕方なく梨苑は千尋にそれを送ってきたようだ。
「能力もないのに他者を蹴り落として高官になれる時代は終わったって事だね。だから余計に皆、梨苑の足を引っ張ろうとするのかな」
「浅ましいですね。分かりました。では流星、梨苑に抗議文を送りつけてきた者たちを書き出すので、私の部下に移動させてください。3日で辞めさせます」
高官から千尋に届いた抗議文に関しては既に嫌味を言って回ったが、補佐達のこの動きは嫌味程度では済まされない。本来、補佐は高官になるべく皆と協力して切磋琢磨すべきだからだ。
「ちょ、何する気?」
「あなたの手を煩わせるまでもありません。ただでさえ今は市井が変わり始めて忙しいというのに、こういう事に時間を割くような者はいらないと言っているんです」
それを聞いて流星も深く頷き、部署異動の手配を始める。
「正直ありがたいよ。後は頼んだ」
「ええ、任せてください。それでは、今日はこれで」
帰りに鈴が好きな梅通りの味噌煎餅を買って帰ろう。そんな事を考えながら立ち上がると、ちょうどそこへ羽鳥がやってきた。
「あれ千尋? ああ、今日は週初めか」
壁にかけてある暦を見てそんな事を言う羽鳥に千尋は頷く。
「ええ。先週の報告書を持ってきたのですよ。そちらは何かあったのですか?」
「ちょうど良かった。今週中にちょっと僕の家に集まらない?」
にこやかな顔とは裏腹に、その口調は真剣だ。そんな羽鳥の表情を見て千尋も流星も頷く。
「では日時が決まったら教えてください」
「分かった。それから流星、今すぐ都外にある牢の点検をしたい」
それを聞いて千尋は部屋を出ようとしていた所で立ち止まった。
「何があった?」
背中に流星の鋭い声が聞こえる。
「不審な通路があるって噂になってる。真偽は分からないけど、煙のない所に火は立たない」
それを聞いて千尋は踵を返してもう一度話の輪に加わった。
「……誰かが脱獄か何かをしようとしているという事ですか?」
「それも分からない。その為の許可が欲しい。流星、承認を」
「ああ」
流星は短く言って羽鳥が持ち込んだ書類に乱雑にサインをする。それを受け取るなり羽鳥は「また連絡する」とだけ言って部屋を出て行った。