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第469話

 鈴はそっと千尋の手を自分の頬に当てると、目を閉じて呟く。


「千尋さま……愛しています」


 その言葉に千尋の指先が少しだけ震えた。そして鈴の頬を撫でながら甘い声で言う。


「私も愛しています。あなただけです。こんなにも愛しいと思えるのは」


 千尋の優しい声が体の中に響く。それはまるで心地よい水の流れのように鈴の全身を巡り、やがて鈴の心までも満たしていった。


 それからしばらくしていよいよ陣痛の感覚が狭くなってきて、鈴はとうとう話すこともままならなくなってきたけれど、あの日見た夢を実現したい一心で雅と産婆、そして千尋に見守られながら耐えた。


 いよいよ痛みが最高潮に達して千隼の時と同様に雅が無理やり角を掴むと、それを見て産婆が悲鳴を上げる。


「ね、猫さま! 猫さまそんな乱暴に角を掴んでは!」

「ごちゃごゃやかましいね! こちとら母親と子どもの命がかかってんだよ! 何が角だ! んなもんまた生える!」

「生えません! 角は生えません猫さま!」


 雅と産婆の攻防を聞きながら鈴は浅い息を繰り返して見上げると、千尋も静かに息を吐きだしながら眉根を寄せ、鈴よりもずっと苦しそうな顔をして力を送り込んでくれている。


 この部屋へ入ってから既に大分時間が経っているが、その間千尋はずっとこうして鈴の上半身を抱きかかえて背中から力を送り続けてくれているのだ。それがどれほどの事なのかは鈴には分からない。


 けれどこんな千尋の姿を見るのは千隼のお産の時以来だ。


 鈴はそっと千尋に手を伸ばし、綺麗なおでこに光る汗を指先で拭った。そんな鈴を千尋が驚いたように見下ろし、次の瞬間には泣きそうな顔をして鈴に顔を寄せてくる。


「あなたはまた、こんな時に私の心配はいらないのですよ」

「そう、じゃ、なくて、お揃い、うれ、しい、です」


 息を吸いながら言うと、千尋は小さく息を飲んで固く目を閉じて何かを堪えるような顔をした。その顔がやけに印象に残る。


 しばらくして目を開けた千尋はいつもよりもずっと優しく微笑んでいて、それだけで全てが報われそうな気がした。


 やがて雅と産婆の攻防は雅に軍配が上がったらしく、それまでなかなか出てこようとしなかった赤ん坊を雅が力いっぱい引き抜きだす。


 もうそろそろ終わりだ。やっと会えるのだ。これで千尋の夢を一つ叶える事が出来る。そう思うと嬉しくて思わず微笑んだ鈴を見て、千尋が肩で息をしながら問いかけてきた。


「何故、笑うのです?」

「うれ、しくて。あなたと私の夢が、一つ、叶う——っ!」

「! 鈴さん!」

「頑張れ鈴! もうちょっとだよ!」

「もう少し! もう少しですよ!」

「っっっっ!!!!」


 声にならない叫び声を上げて鈴は強く千尋の手を握った。その手を千尋もまた強く掴み返してくる。


 そしてようやく——。


 千尋は朝からずっと鈴に力を流し続けていた。片時も休まずにほぼ1日中鈴を膝の上に抱いていた。


 昼頃から友人たちが尋ねてきたけれど、彼らは鈴に軽い挨拶だけをして客間に集う。そんな友人たちにまともに挨拶出来なかった事を鈴は申し訳なく思っているようだが、こんな時ですらもてなしをしようとする鈴に千尋は心を打たれた。


 それから時間だけが無情に過ぎていき、千隼の時に離れていなければならなかった間の事を思い出していた。


 あの時、千尋が鈴の元へやって来る事が出来たのは既にお産の佳境だった。鈴は龍の力を受け取る事もなくたった一人で龍の子を産もうとしていたのだ。


 あの時は必死で、後から間に合って良かったと思っただけだったが、今回ずっと側に居て思ったのは、実際には鈴のお産は10ヶ月も前から始まっていたのだという事だ。


 千尋は腕の中で痛みと戦う鈴を抱きしめてその頭に頬を寄せる。


「あの時、あなたはずっと一人でこんな思いをしていたのですね」

「?」


 千尋の言葉に鈴が視線を上げる。そんな鈴の頭を抱きかかえて千尋は声もなく心の中で懺悔した。あの日の後悔を、そしてあの時の自分の浅はかさを。


 けれどこの後悔は鈴には告げないでいようと決めた。いつだって千尋の味方をしてくれる鈴は、千尋のこんな後悔でさえ救おうとするに決まっているのだから。


 この気持ちは救われてはいけない。同じ過ちを二度と繰り返さないよう、心に刻まなければならない。


「今回は私も最初から共に居る事が出来ました。鈴さん、あなたは一人ではありません。頼りないかもしれませんが、何でも言ってください」

「はい!」


 痛みが少し和らいでいるのか、鈴は笑顔を浮かべて千尋の胸に体を預けてくる。そんな鈴を抱きしめながら、千尋はずっと力を流し続けていた。少しでも鈴が楽にお産に臨めるように。


 けれどいざその時が来ると、そんな考えですら浅はかだったと思い知る。

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