目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第479話

 それを読んで千尋は今回の事に思い至った。アクロイド殺しとは少し違うが、先入観を巧妙につくという手腕は、まさに本の通りだと思ったから。


 ちなみにそれを聞いて面白そうだと思って鈴に他の本を借りた千尋もまた、今やアガサ・クリスティの熱心な読者である。


「なるほど。面白そうだね。僕にも貸してよ」

「ええ、もちろん。そんな訳で私達はあなたが以前のあなたと同一人物だという事を知っていました。何か反論はありますか?」


 千尋の言葉に高官は黙り込み、しばらくして眉根を吊り上げてまるで人が変わったかのように怒鳴り散らす。


「知ってたのに放ってたのかよ!? だったら何か!? 弟は犬死にしたって事かよ!?」

「そういう事になりますね。可哀想に」


 淡々と答えた千尋を高官は睨みつけてくるが、そんな視線を千尋は受け流すだけだ。勝手に入れ替わりを思いつき、さらには実の弟を勝手に殺害した者の事など、いちいち気に留めていられない。


 千尋の態度が気に食わないのか、高官は椅子を弾き飛ばして立ち上がると、その場で龍に戻り始める。


「息吹、お願いします」

「おうよ。さて、ひと仕事すっか」


 面倒そうに首から下げていた笛を吹くと、一斉に部屋の中に息吹の部下たちが流れ込んできた。そしてあっという間に龍に戻ろうとした高官を取り押さえてしまう。


「それじゃ、私はここらで抜けるわ。後はよろしくな~」

「気をつけてよ!? また怪我して帰って来ないでね!?」

「はいは~い」


 流星の忠告に適当に返事をして息吹は部下たちを引き連れて部屋を出ていく。残された者達はまだ神妙な顔をしているが、これでようやく本音を話すことが出来る。


「では羽鳥、お願いします」


 千尋はお茶を一口飲んで居住まいを正すと、続きを促した。


 昼頃、千隼は夏樹と仲良く手を繋いで屋敷に帰ってきた。迎えに行ったのは栄と楽だ。


 菫は昼は仕事をしているので、夏樹は楽が居る神森家にいつも千隼と一緒に帰ってくるのだ。


「おかえり二人とも! 今日も楽しかった?」


 玄関が騒がしくなったので鈴が炊事場を喜兵衛に任せてお出迎えに行くと、鈴を見て千隼と夏樹が鈴の腕の中に飛び込んでくる。


「楽しかった! お腹減ったー!」

「あのね、こんなね、おっきいどろだんごね、つくったんだよ」


 千隼はさっさと自分の靴を脱いで上着を壁に付けてあるフックにかけると、その場で足踏みをして夏樹を待っている。


 夏樹はまだ自分で靴を脱ぐことが出来ないので、鈴は夏樹を膝に乗せて靴を脱がせてやりながら返事をした。


「凄いね! 大きいのが出来たんだねぇ」

「そうだよ」


 コクリと頷いてそんな反応を返してくる夏樹の頭を撫でて膝から下ろすと、二人して廊下を走って一目散に瑠鈴を探す。


「ママー、瑠鈴どこー?」

「どこー?」


「炊事場に居るよ。お兄ちゃんたちずっと待ってた」


 廊下の奥から声が聞こえて鈴が笑みを噛み殺しながら言うと、またドタドタと廊下を走る音が聞こえてくる。いつもはこの足音を聞きつけて千尋が執務室から姿を現すのだが、今日は誰も出てこない。


「たった半日なのにね」


 たった半日。それだけなのにもう千尋に会いたいだなんて、本当にどうかしている。弥七じゃないが、結婚してもう随分経つというのに、いつまでも鈴の心は千尋に恋をしたあの瞬間から止まってしまっているかのようだ。


 そんな自分に苦笑いを浮かべながらも炊事場へ向かうと、雅と喜兵衛がてきぱきと子どもたちに水筒をかけてお弁当を持たせている。


「ほらよ、落とすんじゃないよ、二人とも」

「はーい!」

「うん。ゆっくりあるく」


 そう言ってそろそろと足を運ぶ夏樹を見て楽と栄が笑う。


「もうちょい早くてもいけるだろ? 夏」

「そうだぞ。しかし夏は慎重だな。母親似か?」

「どういう意味? 栄さん」


 栄の言葉に楽がピクリと反応しているが、そんな楽の頭を栄えがワシワシと撫でる。


「まぁまぁ! で、今日はどこで食べんだ? チビども」

「お外!」

「そとー」

「そりゃ分かってんだ。外のどこだ? ま、いいや。ほれ、瑠鈴行くぞ」

「あー!」


 それからどやどやと炊事場から皆が出ていき、とうとう雅と二人になった。


「賑やかだねぇ」

「はい、本当に」


 目を細めて自分たちのお弁当の準備をしていると、雅が突然、鈴の頭を撫でてくる。


「なんですか?」

「いや、何となくね。ありがとうって言いたくてさ」

「? 変な雅さん……ま、まさかどこか体の具合でも悪いんですか!? また毛を舐めすぎて胃がもたれているのでは!?」


 雅はあまり突拍子もない事はしない。それなのに突然どうしたと言うのだ!


 青ざめて雅を凝視すると、雅はそんな鈴を見て慌てて首を振る。


「縁起でも無い! あたしは至って健康だよ! そうじゃなくて、ふと地上での暮らしを思い出しちまってさ。あんたが来る前はこの屋敷はそれはもう静かでね。ここから滴り落ちる水音でさえ聞こえるんじゃないかってぐらいだったんだよ。それがあんた、今じゃ毎日戦争だ。やれ朝は弁当作ってグズる千隼を叩き起こして幼稚園に連れてって買い物、それが終わったら洗濯に掃除、そしたらあいつらが帰ってきて食事して遊んで風呂入れて夕食、それから寝かしつけてやっと一息だ。もう昼寝する暇すらありゃしない」

「ご、ごめんなさい……雅さんは三度のご飯よりもお昼寝好きなのに……」


 地上ではいつも仕事をサボってはどこかで昼寝していた雅だが、確かに千隼が生まれてからそれが無くなったような気がする。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?