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第483話

 音を立てないように温室に入ると、いつも千尋が座っている椅子に鈴がゆったりと腰掛けて心地よさそうに眠っている。


 その光景に思わず千尋は息を飲み、見惚れてしまった。


 鈴の寝顔は天上の神々のように美しい。長いまつ毛が白い頬に落とす影も、ほんのりと色づいた桜色の唇も、隙間風に揺れる柔らかい癖のある髪も、何もかもがまるで永遠に愛され続ける絵画のようだ。


 そんな鈴に心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えながら温室の奥に移動すると、そこには千隼、夏樹、瑠鈴が三人並んで眠りこけている。


「ああ、カメラがあれば!」


 思わず呟いた千尋は、子どもたちの為に用意してある毛布を取り出して三人にかけたのだが、それを瑠鈴が一人でくるくると巻き取っていく。


「こら、瑠鈴」


 小声で注意するも、瑠鈴は兄たちに毛布を譲るつもりはないようだ。仕方が無いのでもう一枚毛布を出して、二人にはそれをかけておいた。


 昼食の後、鈴と雅は子どもたちを連れて温室に移動した。


 温室はいつも大体気温が同じで花の匂いが充満していて心地よい。特に自然が大好きな龍からすればここ程落ち着く場所は無いようで、子どもたちはここが大好きだ。その為、少し前に千尋は温室を改築してその一部に子どもたちが遊べるスペースを作ってやってくれた。


 気がつけば千隼も夏樹も龍の姿になってそこで遊んでいる。まだ龍になれない瑠鈴も混じっているが、転がっているだけで何も出来ない瑠鈴は兄たちの行動を目で追うのに必死だ。


「何か曲かけてやろうか」


 そう言って雅は猫の姿になると高い棚の上に置いてある蓄音機を弄りだす。雅の黒い小さな猫の手が器用に針を掴んでレコードに置くのは何度見ても堪らない。


 部屋の中に千尋のバイオリンが流れると、子どもたちは遊ぶのを止めて歌い出した。


「鈴、寝たみたいだよ」


 しばらくして鈴の膝の上で微睡んでいた雅の声に一瞬寝落ちそうになっていた鈴はハッとした。


「あんたの方が先に寝てどうすんだい?」

「寝てません!」

「いいや、寝てたよ」


 笑いながら雅は鈴の膝の上で丸くなる。そんな雅を撫でながら、鈴はまた気がつけばウトウトしていて——。


 次に目を覚ますと何故か鈴は千尋の膝の上に抱きかかえられていた。


「ふぁ……ん……? ち、千尋さま!?」


 思わず声を上げた鈴の目の前で、千尋はぱちりと目を開けて温室の奥を指さし、そのまま口元にその指を持っていく。どうやら子どもたちはまだ眠っているようだ。


「おはようございます、鈴さん」

「あ、はい……おはようございます」


 まだ日は高い。それなのに何故ここに千尋が? 今日は会議だと言っていなかっただろうか? そんな事が頭の中を過るが、当の本人は微笑みを浮かべて気持ちよさそうだ。


 ふと机の上を見るとそこには見覚えのあるお弁当箱と水筒が置いてある。


「千尋さま、お昼は?」

「先ほどここで食べました。今日もとても美味しかったです。ありがとうございました」

「あ、いえ……こんなにも早く戻られるのなら、もう少しお昼を待っていれば良かったです」


 どうせなら一緒に食べたかった。そんな思いに鈴がしょんぼりと俯くと、千尋はそんな鈴の頭を撫でて言う。


「明日はまた一緒に食べる事が出来ますよ。それに鈴さんの寝顔を見つめながら食べる弁当もなかなか——」

「わ、私の寝顔を見ながら!? お弁当を食べたのですか!?」


 恥ずかしさのあまり鈴が両手で顔を覆うと、千尋は声を出して笑った。


「冗談ですよ。雅に釘を刺されたので、花壇を見つめながら食べました。もうあそこら辺の花は蕾が綻んできてますねぇ」


 目を細めて花壇の一部を指さした千尋に鈴は頷いた。


「そう言えばこの温室は鈴蘭が凄く多いんですね。千尋さまは鈴蘭がお好きなんですか?」

「ええ、好きですよ。花がというよりは名前が、ですけどね」

「名前が?」

「ええ。鈴という字が入っているでしょう? あなたに会えない間、私は花屋で鈴蘭を見つける度に買い漁ってここに置いていたんです。そうしたら気がついたらこんな事になっていまして」


 苦笑いを浮かべる千尋を見上げて鈴は嬉しいやら恥ずかしいやら複雑な気持ちだ。


「どうしてまたそんな事を?」

「だって鈴という名を持つ花を私以外の人が愛でると思うと嫌じゃないですか」


 笑顔でそんな事を言う千尋を見て鈴は困ったように笑い、千尋の胸元に頬を寄せた。


「これからは千尋さまの鈴がずっと千尋さまの側に居るので、今度からは千尋さまがお好きなお花を買ってきてくださいね」

「っ……はい、そうします。これ以上の花なんてどこにも咲いて無いですけどね」


 鈴の行動に千尋が何を思ったのかは分からないが、千尋が鈴を強く抱きしめてくる。ふと顔だけで見上げてみると千尋の耳は赤い。



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