しばらく千尋は照れているのを誤魔化すように鈴の頭を抱えていたが、ふと真剣な声で話し始めた。
「そう言えば鈴さん、もしかしたら今後、私の業務内容に泊りがけの出張が入るかもしれないのですよ」
「出張……ですか?」
「ええ。とは言え一日だけですけどね。それも月に一度あるかないかぐらいの頻度なのですが」
千尋の言葉に鈴は少しだけ視線を伏せる。
「もしかして、私達がいるから千尋さまは今まで出張に出られなかった……とかですか?」
「いいえ。元々の業務には無いのですが、昔、ある優秀な高官の一人が事故で逆鱗を傷つけてしまいまして。その方が先日ようやく目覚めたそうなのです。彼はとても優秀な人材だったので彼の枠はずっと空けてあったのですが、まだ自力で動く事が出来ないそうで」
それを聞いてようやく鈴はホッとする。良かった。鈴達の存在が千尋の仕事の邪魔になっていたらどうしようかと思ったのだ。
「それで千尋さま達が自らその方の所に赴くのですね!」
「そういう事です。梨苑が慣れるまでの少しの間だけ、付き添いとして向かう事になったんですよ。本当は日帰りしたいんですけどねぇ……」
「遠い所に住んでらっしゃるのですか?」
「はい、とても。都のほぼギリギリの所に住んでらっしゃるのですよ。良い歳なのだから都に越して来いといくら言っても聞きもしない偏屈な方なんです」
困ったように肩を竦めた千尋を見て鈴は昔近所に住んでいたバイオリンのお爺さんを思い出す。口は悪いし偏屈だと言われていつも一人ぼっちでバイオリンを弾いていたけれど、鈴にはとても良くしてくれた。きっと本当は寂しくて仕方なかったのではないだろうか、素直になれなかっただけで。
そんな事を考えていると、千尋が続きを話し出す。
「それで雅にも先ほど伝えたのですが、彼女は連れて行っても構いませんか?」
千尋が地上で龍神の仕事で各地に赴く時はいつも雅を同行させていたという。千尋にとって雅はやはり右腕のような存在なのだろう。
けれど千尋はどこか浮かない顔をしている。きっと鈴の心配をしているに違いない。だから鈴は胸を張ってドンと叩いた。
「もちろんです! 雅さんは千尋さまの右腕ですから! それに栄さんや弥七さん、喜兵衛さんも居ますし、楽さんと菫ちゃんにも泊まりに来てもらいます! だから平気です! いざとなったら私が皆を守ります!」
そんな鈴を見て千尋は苦笑いを浮かべて困ったように鈴の頬を撫でる。
「とても頼もしいのですが、危ない事が起きたらあなたは子どもたちを連れて栄と楽の後ろに隠れるのですよ?」
「は、はい。そうでした……またうっかりしゃしゃり出る所でした」
あの石事件を思い出してハッとした鈴は、しゅんと項垂れた。鈴の悪い所だ。すぐに前へ前へとしゃしゃり出ようとしてしまう。そんな鈴を見て千尋が笑った。
「はは! しゃしゃり出ているとは思いませんが、気を付けてくださいね、鈴さん」
「はい! では私は最低限、子どもたちを守ります!」
これは親の努めだ。それには千尋も納得したようで、深く頷いて鈴のおでこに優しいキスをしてくれた。
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それから千尋と鈴は手分けをして子どもたちを起こさないように部屋へ戻すと、二人してどちらからともなく書斎へと向かった。
千尋は原初の水についての資料を集めようと思ったのだが、どうやら鈴も鈴で新しいお菓子に挑戦しようと思っているようだ。
しばらくして二人は互いに向かい合ってそれぞれの調べ物をしていたのだが、やはりどれほど探しても何の手がかりもない。
千尋は本を閉じて深い溜息を落とした。ふと見ると、鈴が入れてくれたハーブティーが冷めてしまっている。
千尋は冷めても美味しいハーブティーを飲みながら誰にともなく呟く。
「はぁ……原初の水とは一体何なのでしょうねぇ」
その言葉に向かいで何かを書きつけていた鈴が顔を上げた。
「千尋さまは原初の水をお調べしていたのですか?」
「ええ、そうなんですよ。またあの水を使って何者かが悪さをしているようで、どうもあれを毒殺に使ったようなのです。けれど証拠が無い」
千尋の言葉に鈴はハッとして口を覆っている。怖がらせたい訳ではなかったので少しだけ罪悪感を覚えていると、続いて鈴が千尋にも思いも寄らなかった話をしだす。
「そう言えば、私がまだ佐伯家であのお水を作ってた頃の事なんですけど」
「? ああ、そうか、そう言えば鈴さんは原初の水を複製していたのでしたね!」
その事を思い出して身を乗り出すと、鈴もコクコクと頷いている。その顔には千尋が懸念したような恐怖などは浮かんではおらず、むしろ戦う気満々である。
「実はあのお水を私は舐めた事があるのですよ」
「……へ!?」
思いも寄らない鈴の言葉に珍しく千尋の理解が追いつかない。思わず鈴を凝視すると、鈴はそんな千尋を置いてさらに話す。