千尋は鈴の話をノートに書きつけていった。誰にも読まれてしまわないよう、英語で。
「他に何か気付いた事はありますか?」
「他ですか? そうですねぇ……あ! そう言えば一度うっかりしていて出来上がってすぐの水を零してしまった事があるのですが、その水がかかった油虫が生き返った事がありました!」
「油虫が生き返った?」
「はい。驚いているうちに逃げられてしまったのですが、虹色に輝いていましたよ」
「それは……つまり原初の水には何かを生き返らせる力があるという事ですか?」
「多分? でもそれと同時に殺してしまう力もあるのだと思います」
それを聞いて千尋は息を飲んだ。それはもう神の力そのものだ。原初の龍はほぼ神と同等の力を持っていたと考えたほうが良さそうである。
「鈴さん、あなたのおかげでとてつもなく重要な事が分かったかもしれません。ただ分からないのは、どうやってその情報を五月さん達が手に入れたかと言う事ですね。やはり前王が話してしまったのでしょうか……でもだとしたら王はもうとっくに消えていてもおかしくはない……謎は深まるばかりですね」
「それこそ先入観なのではないですか? 千尋さま!」
口元に手を当てて考え込んでいると、鈴がアガサ・クリスティーの本を指差す。
「どういう事ですか?」
「龍たちは皆、幼い頃から原初の水の存在を聞かされてきた。その秘密は王しか知らず、もしもそれを誰かに告げれば王は原初の龍の残した呪が降りかかる。でももし、そうじゃなかったら?」
「っ!」
言われてみればその通りだ。それが真実であったかどうかなど、誰にも分からない。だとすれば王は自発的に五月達にその事実を漏らした可能性もある。
千尋はガタンと立ち上がった。そんな千尋を見て鈴は手を叩いて応援してくれるが、この件に関しては完全に鈴のおかげだ。
千尋は鈴に軽いキスを落として自室に戻ると、鏡を使ってすぐさま流星と羽鳥に連絡を取った。
♡
こんな鈴でも何か千尋の役に立てただろうか? それは分からないけれど、少なくとも千尋は何かの答えを導き出したようだ。
千尋が居なくなった書斎で少しの間読書をしていた鈴だったが、柱時計を見て急いで立ち上がった。
「すみません! 本に夢中になっていました!」
炊事場に入ると、そこには既に夕飯の支度を始めている雅と喜兵衛がいる。
「大丈夫ですよ、そんなに慌てなくてもまだ米を研いでいただけですから」
「そうだよ。まーたアガサなんちゃらかい?」
「はい! もう何回読んでもドキドキしてしまって!」
割烹着を着ながら言うと、雅がおかしそうに肩を揺らす。
「英語じゃなきゃ読むんだけどねぇ。鈴、あんたちょっと和訳してくれよ」
「それは構いませんが、私が訳すと独特な言い回しになってしまうかもしれません」
散々周りから言葉のチョイスがおかしいと言われる鈴だ。そのせいであの世界観を壊しかねない。
「自分も読んでみたいんですけどなかなか……楽と菫さんは辞書を片手に読んでましたけど、そこまでする程面白いんですか?」
「はい! とても!」
「そうなんですね……それじゃあちょっと自分も頑張ってみましょうか」
喜兵衛はそう言って包丁を研ぎ出した。その横顔はいつも真剣だ。それから三人で料理の準備をしていると、屋敷が徐々に賑やかになっていく。
「ああ、チビ達が起きたかね、こりゃ」
「多分」
笑いながら炊事場から廊下を覗くと、姿は無くとも3人分の賑やかな声がここまで聞こえてくる。その声を聞きながら鈴は雅と喜兵衛と共に夕食の準備を進めた。
夕食が出来上がったちょうどその頃、楽が夏樹を抱いて炊事場にやってきた。
「菫が帰ってきたみたいだから俺等そろそろ帰るよ」
「あ! 楽さん、今日のお夕飯です! 菫ちゃんにもお疲れ様って伝えておいてくださいね」
鈴は出来上がったばかりの夕飯をそれぞれ鍋に入れて風呂敷に包むと、楽と夏樹に持たせた。
「おう、サンキュ! いっつもありがとな、うちの分の飯まで」
「構わないさ。菫が外で頑張ってんだ。これぐらい何て事ないよ。なぁ?」
「そうだよ、楽。菫さんは学校の事だけじゃなくて最近は市井の治安の事にまで気を配ってるっていうじゃないか。桃紀さまや他の高官達の信頼も厚いみたいだし、楽がしっかり支えなきゃ駄目だぞ」
真剣な顔で言う喜兵衛を見ろして、楽もまた真剣な顔で頷く。
「うん。俺があいつの為に出来るのはヘコんだ時に慰める事と家事ぐらいだから。それでも良いってあいつが言ってくれる限り、俺はずっとあいつの側に居て一番の理解者で味方でいるよ」
菫と楽の関係は今や都でも話題になっている。今までは男が外に働きに出て女は家を守るものだという価値観が、この二人のおかげで少しずつ変わり始めているようだ。そこだけは地上よりもずっと進んでいるのかもしれない。