それから数週間、日々は穏やかに過ぎていたというのに、ある日、思いもよらぬ所から事態が動き出した。
幼稚園から帰ってきた千隼が着替えをしながらこんな事を言い出したのだ。
「あのね、今日井戸の水が変な匂いがするって大騒ぎにね、なったんだよ! 先生がね、絶対に飲んじゃ駄目! 触っちゃ駄目って言ってた!」
「変な匂い?」
洋服に着替えさせながら鈴が聞き返すと、千隼は袖に腕を通しながら得意げに頷く。
「うん! 弥七おじがお庭に撒く奴みたいな匂いだよ!」
「弥七さんがお庭に撒くって……堆肥肥料の事?」
「んー……分かんない。でも変な匂い! そのせいで夏が暴れようとしたんだよ!」
「夏樹くんが?」
鈴はそれを聞いて千隼を抱き上げると、すぐさま千尋の部屋に駆け込んだ。
「千隼、今のお話をパパにもしてあげて!」
何か変だ。鈴の直感がそれを告げていたのだ。
千隼を抱えて部屋に飛び込んで来た鈴を見て千尋もまた何か感じ取ったのか、仕事の手を止めて千隼を鈴の腕から受け取り、その頬に軽くキスをして微笑んだ。
「お帰りなさい、千隼。今日は幼稚園で何があったのですか?」
いつも通りの優しい千尋の声に、千隼は機嫌よく先程の話を千尋に話し出した。そこへ今度は楽が夏樹を抱いて飛び込んでくる。
「千尋さま! ちょっと夏の話を——ああ、千隼も居んのか。今日の話だよな?」
楽は部屋に飛び込んで来るなり鈴が居る事に気づいて真剣な顔をして問いかけてくるので、鈴はコクリと頷いた。
「はい!」
一方、千隼の話を聞いていた千尋は、最初のうちは笑みを浮かべて聞いていたものの、話が異臭の辺りまで来た途端、表情を変える。
そして千隼の話を聞き終えた千尋は千隼を下ろして夏樹と共に部屋から出すと、真面目な顔をして楽に早口で言う。
「楽、すぐに菫さんに連絡を取り調査が終わるまで学校、幼稚園の全てを封鎖してくださいとお願いしてもらえますか?」
「は、はい!」
「鈴さんは千隼と夏樹からもっと何か聞き出せないかお願いしても?」
「もちろんです!」
「私はすぐに全ての公共機関の閉鎖と、井戸水の調査を流星に申請してきます」
千尋はそれだけ言って屋敷を飛び出して行った。鏡ではなく、直接だ。
それを見て鈴は楽と楽と顔を見合わせて頷く。これは非常事態だと。
鈴はそれからすぐに神森家の全員に集合してもらって、事の顛末を皆に話す。
「千尋さまが今、流星さまの元へ向かっています。今のところ幼稚園の井戸水だけだったようですが、水源が同じであれば危険だと思うのです」
鈴の言葉に全員が頷く。
「誰かが生活用水に何かを混ぜた可能性があるって事かい?」
「はい。多分、ですが」
「それをあんたは知ってる?」
雅の瞳がキラリと光った。鈴は言おうかどうしようか躊躇った。ついこの間、千尋と原初の水についての秘密は墓場まで持って行くと約束をしたばかりだ。
けれど今はそんな事を言っている場合ではない。
「もしかしたら……原初の水、かもしれません。それも腐った」
「はあ!?」
それを聞いて一番に声を上げたのは楽と栄だ。原初の水についてこの中で最も詳しいのはこの二人なのだから当然だろう。
「原初の水って、あれかい? あんたが佐伯家で培養してた」
「そうです。皆さんも何となく感じていたかもしれませんが、あれがまた悪用されているかもしれないのです。きっと今日にでも千尋さまからお話があると思うのですが——」
千尋はきっと神森家の人たちには全てを話すのではないだろうか。何故なら千尋は鈴と同じぐらい、神森家の人たちを信頼しているからだ。
「あいつらか。あの扁平足の一味か!」
何かを考え込んでいた雅が言うと、楽が場にそぐわず吹き出した。そんな楽を不謹慎だとでも言いたげに栄が睨みつけたが、楽が栄に何かを耳打ちした途端、栄も口元をひくひくさせている。
「かもしれません。でも、多分それだけではないと思います」
もしもあの原初の水が本当に原初の龍から創られた物で、それを知っていて悪用しようとしているのであれば、それはもっと根深い問題だ。初や前王だけで留まるような話ではない。
鈴の言葉に全員が項垂れて大きなため息を落とす。
「なんてこった……どうしてこうも次から次へと問題が起こるのかね」
「そういう運命なんでしょうね……はぁ、とりあえず自分は夕飯の準備をしてきますが、今日はもう簡単な物で良いですか」
「もちろんです! お手伝いしますね!」
鈴が喜兵衛と共に立ち上がろうとすると、喜兵衛はそれを手で遮った。
「いえ、鈴さんはここに居てください。この中ではあなたが一番、今起こっている事を知っているはずですから」
「そうだぞ、鈴。ちーちゃんは俺が庭に撒いてる奴みたいな匂いって言ったんだよな? それって腐葉土か? それとも除草剤?」