千尋の呼びかけに梨苑は振り返るなりいつも通り温度のない口調で尋ねてきた。
「千尋さま、遅かったですね」
「下で息吹と少し。進捗はどうですか」
「まだ俺が独自で仕入れた情報しか無いですね」
「また飲みに行ってたんですか?」
「はぁ、まぁ。今日は休みだったんで」
梨苑の酒好きはもう千尋もよく知っているが、まさか昼間から飲み歩いているとは思ってもいなかった。
「それで私服なのですね。それで、あなたはどこで今回の話を入手したんです?」
「欅通りの酒蔵です。常連だけが入れる酒屋なんですけど、そこで杜氏が「最近、水の様子がおかしい」って言ってたんですよ」
「杜氏が?」
杜氏は酒蔵の全てを把握している言わば頂点だ。その杜氏が水がおかしいと言うのであれば、それは本当におかしいのだろう。
「そうなんですよ。普段は絶対にどこから水を仕入れてるか言わないのに、流石に参ってるのか秘密裏に俺に調査してきてほしいって言ってきたんです。それがここなんですけどね」
そう言って梨苑が差し出してきたのは、住所と簡単な地図が描かれたメモだ。
千尋はそれを受け取って息を飲んだ。
「幼稚園の近くですね」
「そうなんです。で、もちろん俺は調査になんて行くような奴ではないので、羽鳥さまにこの住所の移しを渡しておきました」
「流石ですね、ありがとうございます」
本当に良く出来た部下だと感心していると、梨苑は面倒そうにソファに座り込む。
「何なんですか、これ。一体誰がやってんすか」
「前王と五月さん、琴音さんが中心人物だと思われます。そして近々、初もそこに加わるかと」
千尋の言葉に梨苑が目を丸くして呆れたような顔をしながら千尋を見上げてくる。
「本気ですか」
「本気ですとも。私だって信じたくはありませんが、前の戦争は水面下でまだ動いていたと言う事です」
「なんてこった……初さまか……俺、あの人嫌いなんですよね」
突然の梨苑の言葉に千尋は思わず吹き出した。そんな事を言う龍は本当に珍しいからだ。
「そうなんですか?」
「そうですよ。俺があなたの下で働こうと思った理由の一つが、それですから」
「そうなんですか?」
思わず同じ言葉を繰り返すと、梨苑は気だるそうに窓の外を見つめながら頷く。
「だって面倒そうな女じゃないですか。あんな奴と番関係を結ぶなんて、正気の沙汰じゃないって思ってたんです。でもあなたは番を放ったらかしてさっさと地上に行って運命の番を見つけてきた。それで思ったんですよね。もしかしてこの人も本心では初さまの事嫌いだったんじゃないのかなって。そうしたら親近感が湧いたと言いますか、そこのところどうなんですか?」
真剣な顔をして尋ねてくる梨苑に千尋は少しだけ考えて言う。
「好き嫌いというよりも、どうでも良かったのですよ。番など誰でも良かった。初でも五月さんでも、それこそ琴音さんでも。それぐらい私は都が嫌いでした」
「あー……初さまどころの話じゃなかったんだ」
千尋の話を聞いて梨苑が笑み崩れた。どうやら千尋の答えに満足したらしい。
そこへようやく会議を終えた流星が沢山の書類を持って駆け込んできた。
「全部通した! 今すぐ承認して! ところで息吹は!?」
「あなたの仕事を待たずにさっさと行ってしまいましたよ。非番を盾に」
「あーもう! やっぱりな! 絶対そうだと思った! もちろん息吹部隊もだよね?」
「そうですね。何ならあなたの部隊の者も居たかと」
ドサリとその場で崩れ落ちて頭を抱える流星に追い打ちをかけるように言うと、流星は大きくて長い溜息を吐き出す。
「はぁ——……千尋くん、鈴さんのお菓子を一旦うちの部隊に配るの止めさせてくれない?」
「それは無理です。あれは鈴さんの善意なので。それに私としてはこういう時に何も言わなくても皆が鈴さんを守ろうとしてくれるのは有り難いので止めません」
軍を味方につけた鈴は強い。たとえ千尋が居なくとも、皆が勝手に鈴を守ろうとしてくれるのだから。それをわざわざ止める理由など千尋には無い。
「だよねぇ。稽古場に書類持ってったらだ~れも居ないんだもんなぁ。皆、既に勝手に動いてんでしょ?」
「恐らくは息吹に唆されて」
「はぁ。じゃ、俺も行くよ。千尋くんは——」
「私は一旦屋敷に戻ります。一番に狙われるのは恐らく鈴さんと菫さんでしょうから」
「だね。それじゃあ俺はこれで。夜に君の屋敷に行くよ」
「ええ、お待ちしています。梨苑、そういう訳です。今日はもう帰っても良いですよ」
千尋の言葉に梨苑はサッと立ち上がり、一礼して部屋を出ていく。そんな梨苑の背中を見ていた流星がぽつりと言った。
「あいつ、秒で帰るじゃん。手伝おうとか無いのかな……」
「無いと思いますよ。でも彼はそれで良いのです。飲んだくれているうちに、いつも情報の方から彼の元に飛び込んでくるようなので」
「……なるほど。なんて羨ましい奴なんだよ」
それこそが梨苑の才能なのだろう。それか相当に運が良いかのどちらかである。