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第494話

 何にしても千尋は流星の手の中の書類を一枚抜き取ると、そこに手早くサインをしてまた流星の手の中に戻した。


「私の権限を全てあなたに一時預けます。名前でも何でも好きに使ってください」

「それは有り難い。助かるよ」


 それだけ言って流星は今度こそ窓から飛び出して行った。どうやら相当急いでいるようだ。何せ各部署の承認を王自らが集めて回っているのだから。


 屋敷に戻る前に千尋は梨苑が見せてくれた住所の場所に向かった。そこには古い井戸があり、その前で2人の若い男女が寄り添って話し込んでいる。


 一見するとカップルのようにも見える二人だが、甘い雰囲気とは裏腹にその眼光はあまりにも鋭い。


 千尋はその二人に近づいて話しかける。


「ここで何を?」


 千尋の問いかけに二人は笑みを浮かべると、体をズラして千尋に井戸を見せてきた。


「これは千尋さま! いや~この井戸の水が肌に良いってこいつがどっかで聞いてきたみたいで付き合わされてるんです。ところがついさっき桶を落としちゃいまして、どうしようかと思っていたんですよ」


 それを聞いて桶を吊るしていたロープに視線を移すと、そこには真新しい切り口がついている。どうやらこの二人は羽鳥の手の者で井戸は黒だったようだ。


 それに気づいた千尋がわざとらしく考え込む仕草をして言う。


「それは困りましたね。では修理の申請をしておきましょう。それまでこの井戸は塞いでおかなければいけませんね」

「助かります、千尋さま。どうぞよろしくお願いします。この井戸水は真っ直ぐ北の方に繋がっているようなので、そのどこかで汲んで帰ろうと思います」

「そうですか。くれぐれもお気をつけて」

「ええ、千尋さまも。お会いできて光栄でした!」


 そう言って二人はまるで本物のカップルのように和気あいあいとその場から離れていく。


「北か……」


 よくこの短時間でそこまで調べ上げたものだと感心しながら、千尋は市井の事を一手に引き受ける桃紀にすぐさま連絡を入れる。


 それから少しもしない間に井戸は封鎖され、あの二人が言ったここから北にある一直線上に作られていた井戸も全て封鎖された。そのうちの一つが、あの幼稚園にあった井戸だ。


 千尋はそれだけ確認して屋敷に戻った。あの井戸からこの屋敷はそう離れては居ない。一応警戒しておいた方が良いかもしれない。そんな事を考えながら屋敷に入ると、屋敷の中はいつになくシンと静まり返っていた。


 とりあえず子供部屋を覗くと、そこには子どもたちが遊び疲れたのか眠りこけている。


 耳を澄ますと、どこからともなく楽の怒鳴り声が聞こえてきた。


 千尋が屋敷を飛び出して一時間程が経とうとしていた。そんな中、屋敷に血相を変えて飛び込んできたのは菫だ。


「ちょっとどういう事!? 何があったのよ!? あの子達は!?」


 菫は談話室に駆け込んでくるなり、鈴の肩を掴んで激しく揺さぶってくる。


「お、落ち着いて菫ちゃん! 大丈夫だから! 皆、無事だよ!」


 子どもたちは喜兵衛の特製うどん定食を食べて、すっかり眠ってしまった。


 それを聞いて菫はようやく鈴から手を離すと、楽の前に置いてあったお茶を何の断りも無く一気に飲み干す。


「おい、せめて姉さんが持ってきてくれるまで待てなかったのか?」


 苦笑いを浮かべながらそんな事を言う楽を、菫はキッと睨む。


「仕方ないでしょ! 私はあんた達と違って飛んだり出来ないのよ! 椿通りから走って帰ってきたんだからね!」

「そうかよ。それはお疲れ様だったな。ところで椿通りって何でまた?」

「それがね、今朝一番に桃紀さんの所に研修中の教師から苦情が入ったらしいのよ。寮の庭からおかしな匂いがするから確かめて欲しいって」

「異臭!」


 それを聞いて思わず鈴が立ち上がると、菫も神妙な顔をして頷く。


「そうなの。それの調査に行ってたら今度は楽から幼稚園で異臭騒ぎが出てるって連絡が入ったのよ。ねぇ鈴、あれあんたが作ってたあの怪しい水の匂いじゃない?」


 菫の言葉にその場に居た全員が固まった。千尋には絶対に嗅いではいけないと言われたが、どうやら菫は鈴よりも一足先にその匂いを嗅いだようだ。


 鈴は息を飲んで今度はさっきとは逆に菫の肩を掴んだ。


「嗅いだの!? どんな匂いだった? 甘ったるいような匂い!? それとも酸っぱい感じ!?」

「ちょ、ちょっと何なの! あれよ、ほら! 何か変に甘ったるくてずっと嗅いでると頭が痛くなる奴よ」


 それを聞いて鈴は菫の肩から手を離した。そしてドサリとその場に座り込む。


「ちょっと、どうしたのよ?」

「あれ……猛毒なんだよ。あの甘い匂いに釣られて虫とか鳥とかが来てたの。でもあの水を飲むと皆、死んじゃうんだ……」


 やはり井戸の水に混ぜられたのは毒の方なのだ。鈴の言葉を聞いて今度は楽が怒鳴る。


「おい菫! お前、大丈夫なんだろうな!? そんなの嗅いで何ともないのかよ!?」

「私? 私は別に何も無いわよ。だって鈴が佐伯家でちょっとの間、除草剤代わりに使ってたもの。最初は甘くて良い匂いだなって思ってたけど、だんだん気分が悪くなるから止めてって言う前にあんた止めたわよね?」


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