座り込んだ鈴の隣に菫が座り、顔を覗き込んでくる。と、そこへ突然千尋の声が聞こえてきた。
「それは是非とも私も聞きたいですね。鈴さん、もしかして異臭には種類があるのですか? だからあの水を嗅がせてくれと?」
「千尋さま!」
千尋の声を聞いて鈴はすぐさま立ち上がると、今度は千尋の手を掴む。
「そうです! あの水が腐ったら甘い匂いになります! 菫ちゃんが言ったみたいに、最初は良い匂いだって思うんです! 花みたいなお菓子みたいな。でも、しばらく嗅いでると頭が痛くなって気分が悪くなってくる事に気づいて、それで——」
おまけにあの水を飲むと小動物や虫が死んでいる事に気づいた鈴は、すぐさま怖くなって庭に撒くのを止め、それ以降は決して水を腐らせてしまわないようにしていたのだ。
そんな物が子どもたちが使う井戸に混ざっていたのかと思うと、怖くて体が無意識に震えだす。そんな鈴の体を千尋がそっと包み込むように抱きしめてくれた。
「なるほど。それでもう一つの匂いはどういう状態の時、どんな匂いなのです?」
「もう一つは虹が入った時です。ぱぁって輝いて酸っぱい匂いがするのです。むしろそちらの方が臭いんです」
「そうですか。そしてそれがかかった油虫が生き返った?」
「は、はい!」
「わかりました。皆さん、これから話すことをよく聞いていてください」
千尋はそう言って、この間鈴に秘密だと言った原初の水の仮定の話と、いま都で起こっている事をゆっくりと話し出す。
何となく皆も何かが起こっている事を感じていたのだろう。それまで腕を組んで千尋の話を聞いていた雅が重い口を開く。
「要はあれかい? 扁平足がそろそろ生き返って、前王と五月達と一緒に何か仕掛けてくるって、あんたはそう思ってるのかい?」
「そうですね。その可能性が高いと思っています。今の鈴さんの話を聞いた限り離宮で起こった異臭騒ぎは恐らく酸っぱい匂いの方でしょう。ですが都外の牢獄で起きた異臭騒ぎは恐らく甘い匂いの方だと思われます」
「でもよぉ、千尋。もうあっちの軍勢は居ないんだぞ? そんな少人数で何が出来るんだよ?」
栄の言葉に思わず鈴も頷いてしまった。千尋はあの時の都で起きた戦争の事を鈴には詳しく教えてはくれなかったが、色んな人達から聞いた話をまとめると、敵の勢力はもうほとんど無いと言っていいはずだ。それなのにそんな大きな事が出来るだろうか?
「栄の言う通り、あちらの勢力はもうほとんど無いと言っても過言ではありませんが、私が気になるのはあの手紙なんですよ」
「手紙って、私に届いた奴の事?」
菫の言葉に千尋は軽く頷いた。
「ええ、そうです。あの手紙に返信をすると、血判を押して返送しろという指示があったそうなんですよ。私は最初、それは原初の水を作るための物ではないかと考えていたのですが、もしその血判が違う何かに使われているとしたら——」
そこまで言って千尋は一旦口を閉ざした。そんな千尋に皆の視線が集まる。
「血判なんて何に使うんですか!?」
青ざめた楽を一瞥して千尋はまた口を開く。
「あの原初の水が本当に初代の龍の血なのだとしたら、あの人達がその血を使わない訳がない。そして血は古くから主従関係を結ぶ契約に使われる事がしばしばあります。生贄、傀儡、供物などにも」
「っ!?」
鈴は息を呑んだ。菫の元に届いた手紙のような物がどれだけの人に送りつけられたかは分からないが、その中から一体どれだけの人が手紙に返信をしてしまったのだろうか。
「千尋さま、その手紙の内容は皆同じだったのでしょうか? 例えば菫ちゃんに届いたみたいな、その……千尋さまの事が本当は好きなんだろう? みたいな……」
そこまで言って鈴は視線を伏せた。もしもそうだったとしたら鈴を嫌う人は限りなく多いという事になるし、何よりも恋敵が今もまだ山程いるという事になる。
そんな心配をしていると、千尋が不意に頭を撫でくれた。
「いいえ。同僚とその娘に届いた手紙は少なくともそれぞれの願いを叶えてやると言う内容でした。二人は覚悟の上でその手紙に返信をして、血判を押して戻せという手紙を受け取ってくれたのです」
「そう……なんですか?」
思わずホッと胸を撫で下ろした鈴を見て、千尋が柔らかく微笑んだ。
「安心してください、鈴さん。私はたとえどれだけの人に言い寄られたとしても、あなたしか眼中にありませんから」
「は……はい! 私もです!」
鈴の心配事に気づいたのか千尋が甘い声でそんな事を言うので、思わず鈴は千尋に抱きついてしまった。