そんな鈴にとって今回の事はどれほど堪えただろうか。
千尋の言葉に鈴がそっと部屋に足を踏み入れてきた。ドアが閉まったのを確認した鈴は、テーブルの上に持ってきていたお茶を置いて無言で千尋にしがみついてくる。
小刻みに何かを堪えるような鈴を千尋は抱きしめた。しばらくすると鈴から小さな嗚咽が聞こえてきて、胸が締め付けられる。
「不安ですか?」
「はい」
その一言に全てが詰まっている。鈴は普段からあまりネガティブな事は言わないしそういう素振りも見せないが、それが鈴の虚勢だと言う事を千尋は理解している。
だからこそこんな風に鈴が千尋に弱みを見せる時は我慢が出来ない時だ。恐怖や不安に押し潰されそうな時に鈴は千尋の元へやってくる。こんな風に鈴が千尋の元へとやってくるようになったのは、やはりあの投石事件の後からだろう。
「こ、子どもたちに何かあったら……どうしようって。皆も居るから大丈夫。千尋さまの加護もあるから大丈夫って思うのに、部屋に戻って一人になると、子どもたちの笑顔を見ると泣きそうになってしまって……千尋さまだっていつも揉め事の中心に居るし私、心配で心配で仕方なくて——」
そこまで言って鈴が顔を上げて千尋を見上げてきた。その大きな澄んだ目からは大粒の涙が溢れている。それを拭う事すらせずに鈴は千尋の着物を掴んで声を荒らげた。
「千尋さままで居なくなったら私、どうしよう!? 嫌だよ……もう置いて行かれるのは嫌……どこへも行かないで……お願い、鈴を一人にしないで……」
「……鈴さん」
こんな風に鈴が千尋に心を吐露するのは初めての事で、少なからず千尋は驚いてしまった。それと同時に鈴が拭い去る事の出来ない両親との突然の別れを今も引きずっている事や、鈴がずっと胸に抱えていたであろう不安が押し寄せてくる。
千尋は鈴を強く抱きしめると、そのまま抱え上げてソファに座り鈴の顔を覗き込んで言った。
「鈴さん、約束します。私は、私だけは絶対にあなたを一人残したりしません。時が来たら私はあなたを見送り、そして私も大気に還りましょう。それから二人でどこまでも行くのです。またいつか命を授かりもう一度出会うその時まで、片時も離れないよう混ざり合ってどこまでも」
鈴が千尋の言葉を聞いて小さく体を震わせた。その目からはまだ大粒の涙が溢れているが、口元が微かに微笑んでいる。
「……約束、してくれますか?」
「ええ、約束です」
千尋は鈴に嘘はつかない。ましてや鈴との約束は絶対に破らない。鈴もきっとそれを知っている。千尋は鈴を抱きしめてその温もりをしっかりと体に刻み込んだ。決して忘れる事など出来ない温もりは、鈴だけがいつだって千尋に与えてくれる。
しばらく二人でただ黙って何かを確かめ合うように抱き合っていたが、ふと千尋は肩を揺らした。
そんな千尋を怪訝に思ったのか、鈴は顔を上げて小首を傾げている。
「いえね、さっきも言いましたが、やはりあなたはそこに居てくれるだけで力になるのだなと思いまして」
「どういう意味ですか? むしろ私はワガママばかり言って……それどころかあんな口の利き方……」
鈴は自分がいつもの敬語ではなく、まるで菫に話す時のように砕けた口調で話した事を思い出したのか青ざめている。
「それはむしろ嬉しかったのでそんな青ざめないでください。それにあなたは、あなただけは私をいつも必要としてくれる。水龍である事や力など関係なく、千尋の事を必要としてくれている。それをいつも私に伝えてくれる。それがね、とても嬉しいのです。あなたはきっと私だけをこれからも一生思い続けてくれるのだろうなと思えるので」
鈴は千尋でなければ守ってやる事が出来ない。いつだってそう思わせてくれる。そうする事で千尋の自尊心は守られ、あれほど投げやりだった人生に生きる意味を与えてくれるのだ。
千尋は鈴を強く抱きしめると、その耳元で囁いた。
「あなたは私が居ないと壊れてしまいそうだと、だからこそ私は生きているのだと、そんな風に思って喜んでしまった私を許してくれますか?」
すると、鈴は千尋の腕の中で小さく首を振る。
「千尋さまがそう思ったと言う事は、私もまた千尋さまにとってそういう存在だと言う事ですか?」
「そうですよ。だから私達は運命の番なのです。どちらが欠けても私達の人生は成り立たない」
千尋の言葉に鈴がようやく顔を上げた。その顔にはさっきまでの憂いはもう浮かんではいない。
「千尋さま、愛しています。これからもずっと。だから、ずっと側に居てくださいね」
「ええ、もちろんです。私からもお願いします。どうかずっと私の側に居てください」
離れないでと叫んだ鈴の声は、そのまんま千尋の心の声だ。周りからはいつまで戯けるんだとからかわれるが、これが千尋の生きる意味で鈴こそが生きる理由なのだから。