「それで、この後はどうするの? お父様。まさか大人しく捧げ物が行動を起こすのを待つおつもり?」
「いいや。もうじき都が内部分裂を始める」
「内部分裂?」
「ああ。この合図を千尋が上手く使ってくれれば良いが」
「!」
どうやら兼続もまた都での千尋の噂など信じていないようだ。それを聞いて初は深々と頷いた。
「やはり千尋は何かの作戦を企てているという事?」
「ああ。でなければあの冷淡で優秀な水龍がのほほんと毎日屋敷で妻と子どもに囲まれて穏やかに暮らす事に幸せを感じると思うか?」
「思わないわ。それに都から流れてくる話もあからさますぎる。これは千尋の罠なのね?」
千尋はああ見えて野心家だ。いつも詰将棋のように立ち回り、盤の上からいらない物を排除していく。その為に何かをわざと盤上に上げる事も厭わない。それがその人間の娘であれば、全てに納得がいく。
「私はそう思っている。千尋とは確かに今は敵対しているかもしれないが、最終的には手を取り合う事になるだろう。都を根底から変えたいのは私達も同じなのだから」
その言葉を聞いて初はふぅと短い息を吐いた。兼続の言う通りだ。今は千尋の作戦に乗るしかない。いや、手助けをしてやるべきだ。
「お父様、その人間を殺してしまいましょう。もしかしたらそれこそが千尋が私達に望んだ役どころかもしれないわ」
「それは五月と琴音に任せてある。五月はともかく、琴音はなかなかの才女だぞ」
「そうですわね。琴音は昔から五月の後をついて回っているように見せかけていただけですものね」
何せ謙信の作戦をどこからともなく聞きつけて色仕掛けで千眼を仲間に引き入れたような女だ。琴音の真の目的は未だに分からないが、表には決して出ようとせず、人を裏から操る事に長けた女。それが琴音である。
初はほくそ笑み二人の顔を思い浮かべた。たとえ琴音がどれほど才女であったとしても、最終的には勝つのは初だ。
♡
千尋が以前言っていた出張の日の朝、鈴はいつもよりも豪華なお弁当を3つ作った。
「千尋さま、良かったらこれ」
それを見て千尋は首を傾げて不思議そうに3つの風呂敷を見つめる。
「3つもですか?」
「はい。千尋さまと梨苑さんと琢磨さまに。もしかしたら琢磨さんは召し上がられないかもしれませんが、その時はまた持ち帰ってきて——」
「いいえ、その時は私が有り難くいただきます。それからこちらの風呂敷は?」
「あ、それはお菓子とハーブティーです。クッキーで申し訳ないのですが、日持ちする物の方が良いかと思って」
こんな事をして点数を稼ごうとする自分を浅ましく思うけれど、千尋の妻として誰からも納得してもらいたい。そんな思いを込めて千尋に包を渡すと、千尋はまるでその気持を正しく汲んでくれたように全てを受け取り、少しだけ屈んで鈴の耳元で囁く。
「もしもこれで落ちないのであれば、琢磨はもう切り捨ててしまいましょうか」
「そ、それはいけません!」
突然とんでもない事を言い出した千尋に鈴が驚いて顔を上げると、千尋はおかしそうに笑う。
「冗談ですよ。ですが鈴さんが私の最愛の人なのだと言う事はしっかりお伝えしてきます。きっと私の変わりように驚くと思いますよ」
「そ、そうでしょうか?」
昔の千尋を知らない鈴なので琢磨がそんな事ぐらいで驚くだろうか? と思うのだが、楽と栄が未だに今の千尋を見て「夢かもしれない」などと言っているのを見ると、千尋の言葉もあながち本当なのかもしれない。
鈴は千尋にはしたないとは思いつつもギュッと抱きついた。そんな鈴の背中と腰に千尋の腕が回る。
「千尋さま、お気をつけて」
「ええ。あなたも気をつけてくださいね、鈴さん」
「はい! 行ってらっしゃいませ。本当に今回は雅さんをお連れしないのですか?」
「ええ。木葉さんが来た事であちらが何かの作戦に移った可能性があるので、雅は置いていきます。何かあったらすぐに報せてくださいね」
「はい。あ、外までお送りします」
「ありがとうございます」
そう言って千尋を見送るために門扉まで出ると、そこには既に正装した梨苑が待っていた。
「おはようございます、梨苑さん」
「おはようございます。一日だけ旦那さんお借りします」
「はい! あ、梨苑さんにもお弁当を用意しておいたので、良かったら食べてくださね」
鈴がにこやかに言うと、梨苑は一瞬顔を輝かせてちらりと千尋を見ると、何故かゴクリと息を呑んでいる。
「えっと……有り難くいただきます」
何故か言葉を濁す梨苑に首を傾げつつ、鈴は空に舞い上がっていった美しい龍たちを見えなくなるまで見送った。