「梨苑と申します。以後お見知りおきを」
千尋以上に淡々と話す梨苑を見て琢磨は眉根を寄せた。
「お前に部下だと? そんな者をつけるほどお前は軟弱だったか?」
「軟弱というよりは、部下が居た方が仕事を早く終える事が出来るので」
正直に答えた千尋に琢磨はさらに眉根を寄せる。
「どういう事だ? 仕事が生きがいだったお前がそんな事を言うとは」
「流星から聞いたのでしょう? 私が人間と婚姻を結んで子どもをもうけた事を」
「聞いた。聞いたが、それと何の関係があるんだ」
本気で意味が分からないとでも言いたげな琢磨に千尋は微笑んだ。
「大ありです。妻と子どもと一時も離れたくないのですよ。だから最近の私は屋敷で仕事をしています」
「……冗談だろう?」
「私があなたに冗談など言った事がありましたか? ところでいつまで私達はここに居れば良いのでしょうか?」
この忙しい時に呼びつけたのは琢磨だ。せめて茶の一つでも出して欲しい。そんな事を考えながら千尋が言うと、琢磨はフンと鼻を鳴らしてようやく千尋と梨苑を家に上げてくれた。
屋敷の中は相変わらず殺風景だ。余計な物など何もなく、必要最低限の物しか置いていない。この雰囲気が以前の千尋はとても好きだったが、今は寒々しい屋敷だとしか思わない。
そんな事を考えていた千尋に後ろから梨苑が小さな声で呟く。
「うちと真逆だなぁ」
「言われてみればそうですね。あの酒瓶はせめて片付けましょうね」
「……余計なお世話です」
バツが悪そうにそっぽを向いた梨苑の屋敷は驚くほど汚い。飲み終えた酒瓶があちこちに散らばっていて、正に梨苑は酒に囲まれて暮らしている。
「随分と仲が良いのだな」
「そうですね。梨苑は鈴さんの素晴らしさを理解してくれる同志なので」
「え、そうなんですか? そんな人山程いるでしょ?」
「居ますよ。ですが、あなただけですよ。私の話をいつも面倒そうな顔をしながらも最後まで聞いてくれるのは」
千尋だって鈴の事を思う存分誰かに惚気けたいのだ。それなのに誰も最後まで聞いてはくれない。梨苑以外は。大抵、皆途中で千尋の話を遮り、冗談だと思うらしいのだ。失礼な話である。
「実際面倒なんで。でも奥様の料理は素晴らしいです」
「ほう、嫁は料理上手なのか。しかしそんな物をいつ振る舞うのだ」
「毎日3食しっかりと振る舞ってくれますよ。ああ、忘れる所でした。これは妻からのお土産です」
そう言って千尋は持ってきていた風呂敷を一つ、琢磨に渡した。そしてもう一つを梨苑に渡す。
「土産?」
「ええ。土産というよりは弁当ですね。で、そろそろ客間に移動しませんか?」
いつまでも廊下で立ち話をしているつもりだと千尋が促すと、琢磨はまた鼻を鳴らして歩き出した。
客間へ移動するなり嬉々として千尋は鈴からの弁当を開け微笑む。鈴はいつも弁当に短い手紙を添えてくれるのだ。
「律儀ですよねぇ」
どうやら梨苑の所にも手紙が入っていたようで、それを読んで少しだけ微笑み懐に手紙を仕舞っている。
「なんだ、お前たちは今からまさか飯を食う気か? ここへ何をしに来たんだ!」
そんな千尋達に琢磨が眉を吊り上げて、とうとう我慢出来ないとでも言うように怒鳴りつけてくる。
「何って、あなたが呼び出したのではないですか。それから梨苑の紹介ですよ」
「な、何だと!? 俺がいつ呼び出したというんだ!」
「皆に私が来ないと怒ったのでしょう?」
「そんな事で怒るものか! 俺が怒っているのはお前が人間などと婚姻を結んだと聞いたからだ! 今すぐに離縁しろ! 子どもも手放してすぐにでも初さまに謝罪するんだ!」
それを聞いて梨苑がピクリと眉を動かした。何せ初が大嫌いな梨苑である。
「いや~お言葉ですけど、初さまだったら断然鈴さんの方が良いですよ。比べ物にならないですね」
「こら、梨苑」
出来るだけ穏便に済ませようと思っていたのに、何故か千尋よりも梨苑の方が先に言い返してしまう。それを聞いて琢磨の顔が真っ赤になっていく。
「何だと!? この若造が! 千尋! 今すぐこの若造も解雇しろ!」
「私があなたの言う通りにした事など無いでしょう? あと鈴さんと離縁などしませんし、子ども達も手放しませんよ。ほら、落ち着いておにぎりでも食べてください」
まるで聞き分けの無い頑固な年寄りを宥めるように鈴の弁当を勧めると、琢磨はとうとうその弁当を横に薙ぎ払った。それを見て千尋の腕に鱗が現れる。それに気づいた梨苑と琢磨がギョッとしたような顔をした。