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琢磨は突然飛びだして行った千尋に一瞬呆気に取られてしまったが、ふと我に返って追いかけようとした。
ところがそれを止めたのは梨苑だ。
「止めた方が良いですよ。多分、地獄見るんで」
それを聞いて琢磨は座り直すと、梨苑を真っ直ぐに見据える。
「どういう意味だ」
「もしも鈴さんに何かあったら、都は絶対に無事では済まないって言ってるんです。ここならもしかしたらあの人の魔の手も届かないかもしれない」
「魔の手? 都が無事では済まない?」
「そうですよ。あなたは寝てたから知らないでしょうが、あの人は一度、既に都を水に鎮めようとした。地上に居る鈴さんを攻撃されたと言って」
「……冗談だろう?」
「冗談なものですか。こんな辺鄙な所に住んでるからそんなにも情報に疎いんですよ。都ではもう誰もが知ってる。あの人は運命の番の為なら何でもする人だって。鈴さんはあの人の唯一の理解者で、鈴さんだけがあの人の機嫌を取る事が出来るんだって」
それを聞いて琢磨は愕然とするしかなかった。初達から聞いていた話とは随分と違う。先程の千尋の態度を見てもそうだが、芝居であの男はあんな事はしない。
「あの人は自分の利益の為だけに誰かを利用するような人じゃないです。誰かさん達とは違って」
「……」
目の前の梨苑という男はどうにも遠慮がない。まるで若い頃の千尋だ。今も梨苑は慌てる素振りすら見せずに呑気にお茶などすすっている。
「俺は前の王家の奴らが大嫌いなんで今の体制の肩持ちますけど、市井はあなたが思っているよりもずっと活気づいてますよ。前王とは違って流星さまは元々人気だった。それを支える高官達も一新しました。そこへどうしてあなたが組み込まれたのか、その理由を考えるべきです」
淡々と語る梨苑に琢磨は顔を歪ませつつ、この男は嫌いではないなと思っていた。
だが千尋があんな剣幕で戻った事だけはよく分からない。
「生意気な奴だな。とりあえず説明してくれ。千尋はどうして急いで戻ったんだ」
「鈴さん——千尋さまの奥様は初さま達にずっと命を狙われているんですよ。地上に居た時から、ずっと」
「……何故」
「そりゃ千尋さまが欲しいからに決まってるじゃないですか。鈴さんと千尋さまが離れている今はあちらにとっては絶好の機会でしょうからね。おまけにあちらは原初の水にまで手を出してるんですから本気ですよ」
「なん……だと? 原初の水に、手を出しただと!?」
「そっすよ。これも有名な話です。何せ前王は自らそれを認めたんですから、都の者達はもう誰でも知っています」
それを聞いて琢磨はとうとう言葉を失った。一体自分が仕えていた王家はどれほどの罪を重ねていたというのだ。
琢磨は立ち上がって神棚の上に置いていた初達と繋がる鏡を取ると、それを庭に放り投げた。鏡はガシャンと言う音を立てて呆気なく割れる。
そんな琢磨の行動に梨苑はおかしそうに目を細めただけだ。
「行くぞ、梨苑」
「どこにっすか」
「都にだ。千尋の嫁に会いたい。それから……子ども達にも」
琢磨はそれだけ言うと千尋から受け取った土産を開けて中に入っていた、見たこともない薄い色の煎餅のような物を一枚口に放り込み目を見開く。
「お、クッキーじゃないですか。しかもハーブの奴か。これ美味いんで——大丈夫ですか? 何か震えてますけど」
「こ、これは何だ。これは何という菓子だ!?」
食べた事の無い味と食感に琢磨は震える指先でもう一枚、クッキーと呼ばれた物に手を伸ばす。
「だからクッキーですってば。もしかしてまだ寝ぼけてるんですか? それとも耄碌してるんですか?」
「ほ、本当に遠慮の無い失礼な部下だな! 千尋にピッタリだ! もう良い! 本人に直接聞く! 行くぞ、梨苑」
「えー……まだ死にたくないんだけどなぁ」
そう言いながらも梨苑は渋々立ち上がる。そんな梨苑を引っ張り琢磨は屋敷を飛び出して、もう何百年ぶりかの都へと向かった。
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鈴は昼過ぎに絹と吉乃を屋敷から送り出し、その足で羽鳥に連絡を取った。
『あれ? 鈴さんだ。どうかしたの? 珍しい』
「あ! 羽鳥さま、今お時間大丈夫ですか?」
『もちろん。あ、ちょっと待ってね! 木葉、置いておいて大丈夫だよ』
『いえ、屋敷の中はもう覚えたので、せめて洗い物ぐらいはさせてください』
羽鳥の後ろから木葉の明るい声が聞こえてきて鈴はほんの少しだけ微笑んだ。どうやら羽鳥と木葉は上手くやっているようだ。
そんな鈴の顔を見て羽鳥が照れたように少しだけ視線を伏せる。
『あー……ごめんね。それでどうかしたの?』
「あ、はい。実は今まで友人が来ていたんですけど——」
鈴はついさっき絹と吉乃に聞いた手紙を返送した人たちの状況を簡単に羽鳥に伝えると、羽鳥はそれを聞いて眉根を寄せた。