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重い瞼をどうにかこじ開けると辺りは暗かった。寝る時はお化けが怖くていつも蝋燭をつけているのに、途中で消えてしまったのだろうか。
そんな事を考えながら鈴は起き上がろうとしたが、何故か体のあちこちが痛む。
「うっ……っ」
その痛みに思わずうめき声を漏らすと、何かの気配がすぐ近くからする。
この蔵には鈴の他に誰も居ないはずだ。それに鈴が寝ている場所もいつものむしろの上ではない。何やらふかふかの布団の感触に鈴は思わず慄いてしまう。
ここは一体どこなのだ?
そんな考えが頭を過ったその時、不意に誰かに強く抱きしめられた。
「っ!?」
あまりにも突然の感触に思わず鈴が体を強張らせると、鈴を抱きしめてきた人物がさっと身を引いた。それと同時に暗闇の中から穏やかな声が聞こえてくる。
「ああ、すみません。痛かったですか?」
その声に鈴の心臓がドクンと大きく跳ねた。聞いた事のある声だ。
けれど誰の声だったかは思い出せない。ただ分かるのはその声はやけに鈴を落ち着かせるという事だけだった。
鈴は戸惑いつつ首を横に振ると、その人物はホッとしたように立ち上がり、どこかへ向かったと思ったら次の瞬間、部屋がぱっと明るくなる。
突然の明るさに鈴が思わず目を閉じると、小さな笑い声が聞こえてきた。
「大丈夫ですか?」
「……はい」
どうにか目を開けると光の中でそれは美しい男性がこちらを見て微笑んでいる。
「鈴さん?」
男性の声に鈴はハッとした。心臓がまるで荒波のようにさざめき、体中の血が逆流するかのように顔に集まる。
「どこか痛みますか? 頭の怪我はもう塞がっていると思うのですが……顔が真っ赤ですが、熱でも出ているのでしょうか」
心配そうにこちらに寄ってくる男性を見て鈴は小さな声で呟いた。
「あの……すみません……どちらさま……でしょうか?」
その言葉に男性の顔が強張った。
何か言ってはいけない事を言ってしまったのだろうか? 不安になって男性を見上げると、男性は一瞬だけ悲しげに視線を伏せたかと思うと、すぐに微笑んで首を振った。
「あなたは一週間ほど前に大きな事故に遭ったのですよ、鈴さん」
「どうして……私の名前……」
そう思うのに、何故か不思議と鈴もまたこの人の事をよく知っている気がした。これほど美しい人に出会った事など無いと思うのに、何故かとても懐かしいような愛しいような気持ちが湧いてくる。
そんな鈴に男性は柔らかく微笑んで座り直すと鈴の手を取った。
「私の名は千尋と言います。聞き覚えはありますか?」
そう問いかけられて鈴は少しだけ考えて小さく首を振る。そんな鈴を見て千尋はまた泣き出しそうな顔をしたけれど、次の鈴の言葉を聞いて泣きそうな顔のまま微笑んだ。
「いいえ……ですが、何故か懐かしい気がします……それに、とても素敵なお名前です」
「……そうですか。少しだけ待っていてくださいね。あなたが目を覚ました事を皆にも伝えなければ」
「皆?」
「ええ、皆」
それだけ言って千尋は部屋から出ていってしまった。その直後、部屋に飛び込んできたのは菫だ。
菫は物凄い剣幕で布団に駆け寄ってきたかと思うと、鈴の肩を強く掴む。そんな菫を見て鈴は息を呑んだ。
「ご、ごめんなさい! すぐに食事の用意をします!」
「あんた……」
「えっと……そろそろ菫ちゃんと蘭ちゃんのお弁当と皆さんの朝食の準備をしないと……」
部屋にあった立派な柱時計の針はもう明け方の4時30分をさしている。そろそろ佐伯家の食事の準備を始めなければ。
そう思ったのだが、それを聞いて菫の両目が大きく見開かれた。
「鈴……また記憶を失っちゃったの? ねぇ冗談よね? お芝居よね?」
「えっと……記憶を……失ってる?」
菫の言葉の意味が理解出来ない。鈴が記憶を失っている? しかもまた? 一体どういう意味だろう?
そこへ千尋が大勢の人たちを連れて戻ってきた。その人達を見て知らない筈なのに何故か涙が零れ落ちる。
けれどそんな鈴を見て皆は安心したように微笑むと、それぞれ鈴に声をかけて部屋を出て行った。
最後に残ったのは千尋と幼い二人の子どもたちだった。兄妹なのだろう。上の子は男の子だろうか。あまりにも整った美しい顔をしていて、千尋にそっくりだ。そして下の子は一目で女の子だと分かる程可愛らしい顔だちをしている。
上の子は何か言いたげにこちらをじっと見つめていたかと思うと、恐る恐る近寄ってきて布団に這い上がってくると、鈴の胸に抱きついてきた。