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第534話

 そんな決心をしてから半月。犯人は未だに見つかってはいない。一体どんな手を使ったのか、その痕跡すら残されてはいなかった。


「今日も美味しそうですね」


 千尋は炊事場に顔を出して戸惑う鈴を後ろから抱きしめて言った。そんな千尋に鈴は戸惑うばかりだが、その耳は真っ赤だ。


「ち、千尋さま……えっと、危ないので少し離れてもらえると、その……」

「大丈夫ですよ。だっていつもこうやってあなたは料理していたのですから」

「ほ、本当ですか!?」

「ええ」


 驚く鈴を見てシレっと嘘をついた千尋を見る雅と喜兵衛の目は冷たいが、何も言っては来ない。それは皆も早く鈴の記憶を戻したいと思っているからだ。


 鈴の症状を見た医者は言った。恐らく極度の緊張状態が続いたのと、力を使いすぎたせいで一時的に記憶が混乱しているのだろうと。


 いつ戻るかは分からないが、いつかきっと戻るはずだとも。


 千尋達はその言葉を信じるしかなかった。そして医者はこうも言ったのだ。出来るだけ普段の日常を過ごす事だと。


 朝食を終えて執務室に戻ると、猫雅が机に飛び乗ってきて千尋を見上げてくる。


「ちょっとあんた、いつもと同じことしろって言われたろ? さっきのは何だい!? ていうかどう考えてもこの一週間あんたは前よりも戯けてるんだけど!?」

「そうですか? いつも通りですよ」


 笑顔を浮かべた千尋を見て雅の目が完全に据わった。


「嘘つけ。あんたはここぞとばかりに鈴と戯けてる。そうだろ!?」

「だってね、雅。鈴さんがそこに居るんですよ。おまけに昔のように初々しい反応をしてくるのです。これを我慢しろと言うのは無理というものですよ」


 当時の千尋も鈴に好意はあったが、まだ恋愛感情と言うものが分からなくて鈴のそんな反応に戸惑い翻弄されるばかりだったが、今回は違う。


 千尋の鈴への好意は最大限からの出発なのだ。初々しすぎる鈴の反応がいちいち可愛らしくてその度に胸が詰まりそうになる。


 そんな事を考えている千尋の心を知ってか知らずか、雅が眉を吊り上げた。


「我慢しな! 必要以上に戯けるな! 思い出した時に鈴が可哀想だろ!? あと毎度毎度あんた達が戯けてるのを見るあたし達の身にもなってくれ!」

「そこはあなた達が我慢してください。私は鈴さんの記憶を取り戻すために必死なのですから」

「……何が必死だ……くそっ! こうなったらあたしだって鈴と戯けてやる!」


 それだけ言って雅は部屋を飛び出して行った。雅も本当は寂しくて仕方ないのだろう。そしてそれと同じぐらい鈴と瑠鈴が無事だった事を喜んでいるに違いないのだ。


 千尋が早々に仕事を終えて伸びをしながら窓の外に目をやると、そこには鈴が瑠鈴をおぶってしゃがみこみ、弥七と何か話し込んでいる。


 それを見た千尋は少しだけ胸がザワつくのを感じながら屋敷を出ると、鈴達に気付かれないように背後から忍び寄った。


「綺麗な花です! それじゃあ弥七さんはいつもお一人でこのお花達のお世話をしているのですね!」

「おう。何だかこんな会話を随分前にもした気がして変な感じだな」


 そう言って苦笑いを浮かべる弥七は満更でも無さそうだ。きっと内心では千尋と同じような事を考えているのだろう。


 その時、鈴に背負われていた瑠鈴が千尋に気がついてしまった。こちらに手を伸ばしていつものように抱っこをせがんでくる。


「ん? 瑠鈴、誰か——千尋さま!?」


 振り返った鈴の顔にはまた泥がついていた。最近では土いじりしても顔に泥をつける事はなくなっていたのに、こんな所まで昔に戻ってしまったようだ。


 千尋は笑いを堪えながら鈴に近寄ると、頬についた泥を指先で優しく拭った。


「あなたはまた顔に泥をつけて」

「す、すみません! あ、これハンカチ……」


 そう言って恥ずかしそうに鈴が出そうとしたハンカチを千尋は断り、瑠鈴を鈴の背中から剥がす。


「大丈夫ですよ、これぐらい。弥七、今は何が見頃ですか?」


 何気なく問いかけると、弥七は裏庭のあの大木を指さした。


「楠ですか? そう言えばここに居ても香りがしますね。鈴さん、少し見に行きませんか?」

「はい!」


 千尋の誘いに鈴は花が綻ぶように微笑む。そんな鈴を見て弥七は眩しそうに目を細めて千尋から瑠鈴を受け取った。


「お二人でどうぞ」

「良いのですか?」

「だって、俺と鈴が二人で何してるのか気になって来たんでしょう?」


 意地悪に口の端を上げて笑う弥七は、時々雅よりも質が悪い。完全に弥七に見透かされている事に気づいて苦笑いを浮かべた千尋は、鈴に手を差し出した。


 すると鈴は千尋の指に自分の指を絡ませてきたかと思うと、すぐさまハッとして手を放す。


「す、すみません。完全に無意識でした!」


 焦ったような鈴に千尋は思わず笑みを漏らした。


「合っていますよ。私達はいつもこうやって手を繋いでいたのですから。そして世間からは白い目を向けられたものです」

「……白い目……」


 それを聞いて青ざめた鈴を見て千尋は慌てて付け加えた。


「ですがそれは昔の話ですよ。今はもう誰もそんな視線を向けてはきません。むしろ微笑ましそうです」

「そうですか」


 鈴はようやくホッとしたようにまた指を絡めてくれる。そんな些細な仕草が千尋には嬉しくて愛しくて仕方なかった。

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