楠の下までやってくると、鈴はすっかり忘れてしまっているはずなのに、楠の幹を愛おしそうに撫でて頬を寄せる。
「この木は何だかとても懐かしい感じがするのです。この木も地上から?」
「ええ。今は崩れてしまいましたが、屋敷と庭とこの木を地上から運んで来たのですよ」
そう言って振り返ると、そこにあったはずの屋敷が今はもう無い。その代わりにあちこちから運ばれてきた資材が高く積まれていて、中庭があった所に仮の屋敷が鎮座している。
千尋の言葉に鈴が寂しそうに視線を伏せた。
「見て……みたかったな……」
ポツリと呟かれた言葉を聞いて千尋の胸が締め付けられる。鈴にとっても千尋にとっても、あの屋敷は大切な思い出が詰まった大事な場所で、何にも代えがたいものだったのだから。
「大丈夫ですよ、鈴さん。細部まで再現出来るよう、皆で力を合わせましたから。すぐに元通りになります」
「本当ですか?」
「ええ。あの屋敷は私とあなたの大事な場所ですから」
随分と見晴らしが良くなってしまった景色を見て千尋が呟くと、不意に千尋の腰に鈴が抱きついてきた。その手はぎこちなく、鈴が相当頑張っている事が伺える。
「鈴さん?」
「何だかこうしないといけないような気がして……」
その言葉に千尋は思わず息を呑んだ。
「あなたはやはり、記憶を失っても鈴さんですね。あなただけが私を慰めてくれる。あなただけが私をいつも掬い上げてくれる」
千尋は鈴の方を向いて鈴を抱え上げた。そんな突然の千尋の行動に鈴はこちらを見下ろして驚いたように頬を染める。
「私はいつもあなたを守ると言っては、結果危ない目に遭わせてしまう。もしかしたら鈴さんはそんな私に嫌気がさしてしまったのではないかと、記憶を失ってしまったのもそれが本当の理由なんじゃないかと思ったりしましたが——」
千尋がそこまで言った時、鈴が頬を染めたまま千尋の肩を掴んで眉を吊り上げた。
「そ、そんな事はありません! 私は確かに記憶を失くしていて、あなたの事も子どもたちの事も皆の事もお屋敷の事も何も覚えてはいませんが、それでもこうして焦る事無く普通に過ごせているのは、今まで千尋さまが私に返しきれない程の愛情を注いでくれていたからだって知っています! 私は、だからあなたがこんなにも気になるのです……忘れていても、あなたの事を何度もお慕いしてしまうのです……」
語尾は小さな声だったけれど、それでも千尋には十分だった。記憶なんて無くても鈴はこうやっていつも千尋を思ってくれる。
堪らなくなって鈴を抱きしめた千尋の頭を、鈴が優しく撫でてくれた。その手つきが以前と何も変わらなくて思わず涙がこぼれる。
「鈴さん……あなたが無事で良かった。本当に……良かった。愛しています。ずっと。いつまでも」
心の底から漏れた声は涙に震えてしまった。そんな千尋の頭を鈴が抱きかかえる。
「私も。お慕いしています、千尋さま。初恋の方と既に結婚して子どもまで居るなんて、こんなにも幸せな事はきっとありませんね」
その言葉に弾かれたように顔を上げて鈴を見ると、鈴の大きな瞳からも涙が溢れていた。