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第536話

 どうして自分でも咄嗟にこんな事を言ってしまったのかは分からない。


 ただ言えるのはそれが胸の奥から沸き起こるような衝動で、止める事など出来なかったという事だ。


 鈴は千尋の潤んだ美しい青い瞳に映る自分を見つけた。そこには恥ずかしそうな、けれど幸せそうな自分が映っている。


 今まで自分に起こった事もここが地上ではないと言う事も、千尋達が龍だと言う事を聞いても、特に驚きもなかった。


 記憶を失う前の自分がどんな生活を送っていたのかそれは分からないが、ただ一つ言えるのは、千尋の隣に居た自分はとても幸せで充実していたのだろうと言う事だ。きっと両親のように愛に溢れた生活をしていたのだろう。


 鈴はギュっと強く千尋に抱きついた。そんな鈴を千尋もまた抱きしめ返してくれる。


「ん? 何かさっきから当たって……」


 ふと、それまで大人しく鈴に頭を抱きしめられていた千尋が顔を上げて鈴の胸元に視線を移した。そこには鈴が菊子からもらったお守りがぶら下がっている。


「これはお守りですか?」

「はい。母が亡くなる前にくれたものです。ああ、端っこが解れて——ん?」


 鈴はお守りを手に取り首を傾げた。解れた箇所から何やら古い紙のような物がはみ出していたのだ。


 それに気づいた鈴が千尋に目配せすると、千尋は鈴の意図を汲んだように下ろしてくれた。そのまま楠の根本に座ると、千尋も無言で鈴の隣に腰掛ける。その動作があまりにも自然で、思わず口の端が緩んでしまう。


「中身は何なのですか?」

「多分、御札とかだと思うのですが、お守りの中身って見たら駄目だって言いませんか?」


 解れたお守りを握りしめて千尋に尋ねると、千尋は微笑んで言う。


「一般的にはそうかもしれませんが、手作りのお守りはその人の大切な物を入れている気がしますね。例えばあなたは私によく手作りのお守りをくれたのですが、大抵中身は私の無事を祈るメモが入っていましたよ」


 それを聞いて鈴は思わず笑ってしまった。


 その時の事を覚えてはいないが、どうやら千尋は鈴が渡したお守りはいつでもすぐに開封していたらしい。そこに悪気も何も無いのが流石だ。


「そうでしたか。だったらもしかしたらこれにも手紙が入っているのかもしれませんね」


 そう言いながら鈴は逸る胸を押さえてお守りを開いた。すると中からやはり千尋の言う通り、古い手紙が出てきたのだ。


「千尋さま! やはりお手紙でした!」

「ええ、そのようですね。お母様からですか?」


 千尋の優しい声音に鈴は手紙を開いて息を呑んだ。


 そこには流れるような筆記体が並んでいたからだ。これは菊子ではない。フレックスの字だ。そしてその下の方に辿々しい英語で菊子の文字も並んでいる。両親の文字が一つの紙に並んでいるのを見るのはこれが初めてだった。


 指先が震える。そんな鈴の手をそっと千尋が包み込んだ。


「美しい字ですね。お母様の文字には愛嬌があります」


 これが両親からの手紙だと言う事に千尋はすぐに気づいたのだろう。


 胸が詰まる思いがしていつまで経っても手紙を読むことが出来ないでいる鈴を見かねたのか、さらに優しい声で尋ねてくる。


「良ければ私が読みましょうか?」

「……はい。お願い……します」


 きっと鈴は泣いてしまう。そうしたら手紙を涙で濡らしてしまうかもしれない。そう思って千尋に手紙を渡すと、千尋はその手紙を受け取って驚くほど流暢な英語で手紙をゆっくりと音読し始めた。


 フレックスが綴った手紙の内容は鈴と菊子に宛てた物だったようだ。


『君たちを置いて先に逝く僕をどうか許して欲しい。ずっと愛している。君たちがこちらにやって来るまで、僕は君たちの幸せを見守っているよ。でも時々で良いから僕の事を思い出して、僕の愛しい宝物達』


 そしてフレックスの後を追うようにして亡くなった菊子は鈴に宛ててくれている。


『鈴、どうか悲しまないで。私は愛しい人に会いに行くだけなのよ。だけどあなたを一人残して逝く事になってしまうのが辛い。まるで半身をもがれたようだわ。ただ願うのは、あなたの幸せだけ。愛しているわ、鈴。ダッドもマムはこれからもずっとあなたの味方よ。私達の愛情があなたを必ず幸せに導くって、そう信じているわ』


 フレックスの最後は鈴には分からない。ただ言えるのは、これだけの手紙を書くのがどれほど大変だっただろうかと言う事だ。そしてそれは菊子にも言える。


 二人とも死の淵でこれを書き上げたのだ。フレックスは妻と娘に、そして菊子は娘に。それを鈴にお守りとして最後に渡してくれたのだ。


 鈴は堪らなくなって千尋に抱きついて声を殺して泣いた。


 そんな鈴を千尋が強く抱きしめてくれる。千尋の胸から聞こえてくる心音は、さっきよりもずっと速い。きっと千尋もこの手紙を読んで胸が震えたに違いない。だからこんなにも鈴を抱きしめる指先が震えているのだ。


 千尋は鈴の髪を撫でながらポツリと呟いた。


「あなたのご両親はとても偉大な方達ですね。尊敬します」

「……はい」


 涙を拭って頷いた鈴の背中に当てられた千尋の手が、指先が鈴の背中をそっと撫でる。


「実はあなたのご両親は私の危機も一度救ってくれたのですよ」

「そうなのですか?」

「ええ。以前私がナイフで刺されそうになった時、お父様の懐中時計が私の身を守ってくれたのです。そしてあなたのお母様の簪が離れていた私にあなたの声を届けてくれた。あなたのご両親の愛情は計り知れません。そしてこの手紙を見て納得しました。鈴さんがこれほどまでに愛情深いのは、ご両親のおかげなのだと」


 その言葉に鈴はもう一度千尋の胸に顔を埋めた。耳を澄ませると木々の囁きと共に千尋の心音が聞こえてくる。


 こんなにも安心する場所を鈴もようやく見つけたのだ。


 たとえ記憶を失くしていても、それだけはずっとこれからも変わらないだろう。


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