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第539話

 一向に記憶が戻らないまま時だけが無情にも過ぎていく中、鈴は千尋にずっとある事を我慢させていた。それは夫婦の営みとキスだ。


 突然どうしてこんな事を考えるようになったのかと言うと、先日雅と買い物に行った時にこんな話が耳に飛び込んできたからだ。


『そういや、最近千尋さまの婚姻色みないな』

『そりゃそうだろ。何せあれだけ溺愛してた奥方が記憶喪失なんだぞ!? 何でも千尋さまの事すら忘れちまってるんだってよ』

『そうなのか!? それは災難だな……我が子の命と引き換えに奥方は記憶を奪われたのか……』

『ああ……あの夫婦はもう長いこと不幸に見舞われっぱなしだ。いい加減に心の底から憂いのない幸せを掴んで欲しいよ』

『そうだな。もう十分にあの二人は試練を乗り越えたんだ。奥方の記憶が早く戻って、また千尋さまの婚姻色が見られるといいな』


 咄嗟に通路に身を潜めて盗み聞きをしていたが、こんな会話を聞いてしまって鈴は猛省していた。そういう雰囲気になる度に鈴は恥ずかしいと言って拒んでしまっていたのだ。


 けれどそれは千尋とするのが嫌なんじゃない。ただただ恥ずかしい。それに尽きる。結婚するまでの記憶も結婚してからの記憶も無い鈴にとって、これは大問題だった。何せ気持ち的にはまだ独身なのだから。


 鈴は屋敷に戻るなり自室にこもって両親からの手紙が入ったお守りを握りしめて問いかける。


「dad,mumどう思う? 鈴の一世一代のピンチだよ!」


 鈴がお守りを握りしめて言うと、不意に窓が開いて風が吹き込んできた。それを閉めようと立ち上がり窓に近寄ると、窓辺に積まれたままになっていた、瓦礫の山の中から掘り出したアルバムの山が崩れてしまう。


 それは千尋が鈴の為に探し出してきてくれたものだ。土埃に塗れていたので拭こうと思って積んでいた。


 何気なくそのアルバムをめくると、そこには白無垢を着た鈴と黒五つ紋付き羽織袴を着た千尋が並んで映っていた。千尋から聞いていた結婚式の日付からは随分後なので、もしかしたらわざわざ後から写真館にでも行って撮ったのだろうか。


 写真の中の鈴も千尋もそれはもう嬉しそうに微笑んでいる。さらにページをめくると生まれたばかりの千隼と思われる赤ん坊を抱いた鈴と、そんな鈴の肩を抱く千尋の写真が出てくる。


 その写真に鈴の胸が締め付けられた。どうしてこんな大切な事を忘れてしまっているのだろう。どうすればこの時の記憶を思い出す事が出来るのだろう。


「鈴さん、雅が買い物から戻るなりあなたが部屋へ行ったと——どうかしたのですか!?」


 鈴がアルバムを見つめて浮かんでくる涙を擦っていると、そこへ千尋がやってきた。千尋は鈴が泣いている事に気づいたようで、慌てて駆け寄ってきて鈴の手の中にあるアルバムを見て息を呑む。


「私、どうしてこんな大事な事を忘れてしまったのでしょう? どうしたら取り戻せるのでしょう?」


 涙声で言うと、隣に千尋が腰掛けた。


「焦る事はないんですよ。あなたとの記憶は全て私が——」

「私も! 私も……覚えていたかった! あなたとの事を全部覚えていたかったのに!」


 焦りと不安から思わず叫んだ鈴を見て千尋が泣き出しそうな顔で微笑む。


「……そうですよね。いくら私だけが覚えていても、それでは鈴さんだけがずっと寂しい思いをしてしまいますね」


 優しいその声に堪らなくなって千尋の胸に頬を寄せ、コクリと頷く。千尋はそんな鈴の頭を抱えて髪を優しく撫でてくれた。その手が覚えていないはずなのにこんなにも愛しくて懐かしい。


 もっと触れたい。もっと触れて欲しい。自然と鈴の心にそんな気持ちが湧き上がってきた。


 鈴は顔を上げて千尋を見上げると、千尋の着物を握りしめてそっと目を閉じる。 そんな鈴の行動を見て千尋がゴクリと息を呑んだのが分かった。それから少しの間があったかと思うと、唇に微かに柔らかいものが触れる。


 ハッとして目を開けると、そこには顔に見事な模様を出した千尋が耳まで真っ赤にしてこちらを見つめていた。


「えっと……その、出てます?」

「……はい」


 その瞬間、脳裏を何か記憶の端っこのような物が過った気がした。鈴はその端っこを必死になって捕まえようとする。


『私はあなたのように誰かを愛したかった。あなたのような人に愛されたかった』


『鈴さん、今更ですが、どうか私と結婚してもらえませんか?』


『ここが私だけの箱庭で、いつまでもここで幸せに暮らすこと事こそが幼い頃から求めてきた物だったと気づかせてくれたのはあなたでした。私はあなたと出会ってようやく忘れていた自分の夢を思い出し、そして叶える事が出来た。だからどうか鈴さん、これからも私の箱庭で共に暮らしてくれますか?』


 突如として蘇ったセリフと共に、まるで頭の中で台風でも起こったのかと思うほど色んな事が蘇る。


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