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第540話

 初めて神森家に辿り着いた時の事、最初は千尋を怖いと思った事、雅や喜兵衛、弥七に良くしてもらった事、楽と最初は険悪だった事、そしていつの間にか千尋を愛していた事——。


「鈴さん? 大丈夫ですか? その、こういう事は別に急がなくても——」


 千尋が言い終わらないうちに、鈴は千尋の首に腕を回して勢いよく抱きついた。


「千尋さま、プロポーズの言葉はやっぱり聞いておいて良かったです!」


 溢れる記憶と涙を止める事など鈴には出来ない。


 鈴の言葉を聞いて千尋が体を一瞬強張らせたかと思うと、次の瞬間には鈴はその場に押し倒されていた。


 真上からこちらを見下ろす千尋の顔は真剣だ。鈴の頬に千尋の流れるように美しくて長い髪が落ちてくる。


「思い……出したのですか?」

「はい。私、これからもずっと千尋さまとあの箱庭で暮らしたいです」

「っ! 当たり前でしょう! あなた以外の誰が私と箱庭を完成させてくれると言うのですか」


 そう言って千尋は愛しげに鈴の頬を撫でたかと思うと、まだ昼間だというのに着物の帯に手をかけながら鈴の唇を塞ぐ。


 けれど鈴はもう拒まなかった。拒む理由など、もう何も無かったから。


 鈴と千尋は夕飯をパスしてその後の団らんもパスして、朝までずっと部屋に閉じこもっていた。そんな二人を皆も察したのか、誰も部屋にやってきたりはしない。


 翌朝、鈴は久しぶりに千尋の腕の中で目を覚まし、そのあまりの懐かしさに思わず千尋の胸におでこをくっつける。


 それがくすぐったのか千尋がうっすらと目を開いて鈴を見つめてくるが、その顔にも体にもいつも以上にくっきりと婚姻色が出ていた。


「千尋さま、今回の婚姻色は過去最高かもです」


 思わず鈴が言うと、千尋は苦笑いを浮かべている。


「体は正直だとよく言いますが、あれは本当ですね」

「羨ましいです。私にも出れば良いのに」

「どうしてです?」

「私も千尋さまの事を皆に自慢したい……です」


 こんな事を思ってしまうのは罪深いと分かっているのに、それでも千尋への気持ちを抑える事が出来ない。


 そんな鈴を千尋が無言で抱きしめてきたかと思うと、耳元で囁く。


「思う存分、自慢してください。あなたがどれほど私への思いを皆に自慢しても、きっと私には敵いません」

「そ、そんな事ありません! 私だって相当なものです!」


 負けず嫌いな鈴が思わず言い返すと、千尋がおかしそうに笑った。


「お揃いですか?」

「はい、お揃いです」


 もうすっかり合言葉のようになってしまったこの言葉が、これほど嬉しかった事はなかった。


 鈴がとうとう記憶を取り戻した。その事はあっという間に都中に知れ渡った。理由は簡単だ。千尋の機嫌と婚姻色が復活したからである。


 それと同時に嫌なニュースも飛び込んできた。都中のあちこちで大小様々な事件が多発しているのだ。それらの犯人たちが全員があの手紙に返信をした者たちだと分かったのは、それからすぐの事だった。


「動き始めたみたいだね」


 会議室に集まった高官達は、羽鳥の言葉に息を呑んで頷く。今回は木葉もこの会議に参加していた。都で唯一の原初の水を知る人物だからだ。


 千尋の正面には今やすっかり人間贔屓になっている琢磨が腕を組んで険しい顔をして座っている。


 琢磨はあれから毎日のように屋敷にやってきては門前払いを食らっていたのだが、記憶を取り戻した鈴が千尋が止める間もなく琢磨を屋敷に上げてしまい、千尋達の馴れ初めを聞いてようやく何かに納得したように頷いていた。


 琢磨は龍至上主義ではあったが、公平な男だ。初達から聞く千尋の話と千尋から聞く話のどちらを信じるのかと問われれば、それは当然本人の話を信じるだろう。おまけに目の前で千尋と鈴に散々戯けられては認めざるをえないというのが、その場に居合わせた雅の見解だった。


 それから琢磨は様変わりした都にしきりに驚いていたが、人々の暮らしぶりを見てようやく鈴と菫がもたらした新しい都を受け入れたようだった。


「しかしまさか仕えていた者がそんなものに手を出していたとはな」


 琢磨が怒りを堪えるかのように忙しなく口ひげを撫で付ける。自分がずっと仕えてきた王や姫が、禁忌と言われる事に手を出していたのだと知った怒りはどれほどのものなのだろう。


「息吹、最近市井で頻繁に起こっている事件はほぼ手紙に返信した人たちで間違いないんだよね?」


 流星の言葉に息吹が頷いて言う。


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