馬鹿だ。そう思うのに、羽鳥の心を千尋は否定する事が出来なかった。もしも羽鳥の立場であれば、きっと千尋も同じ道を選んだだろうから。
千尋が頷いてその場を立ち去ろうとしたその時、地上で何かがよろよろと動くのが見えた。
「羽鳥」
呟いて地上を指差すと、木葉がたった一人で牢獄から姿を現した。これからどこへ向かおうとしているのか、その足取りは最後に会った時よりもずっとおぼつかず、今にも倒れ込みそうだ。
全身で呼吸をし、それでも前へ進もうとしているのがここからでも見て取れた。
「限界なんだよ、木葉の体はもう」
羽鳥はそれだけ呟くと、そのまま地上へ降りていく。千尋はすぐさま羽鳥を止めようと手を伸ばしたが、途中でその手を止めた。
羽鳥が地上に降り立ち、とうとう前のめりになって倒れそうになった木葉の体を抱きとめたのだが、千尋はすぐさま叫んだ。
「羽鳥! 離れてください!」
木葉が何かを持っている事に気づいたからだ。それは小さな瓶だ。
何が入っているのかまでは見えないが、この状況で考えられるのは一つしかない。原初の水だ。
千尋の叫びにも羽鳥は耳を貸さなかった。それどころかさらに木葉を抱きしめて言ったのだ。
「言われた通りにそれを使っても構わないよ、木葉。一人で逝くのは怖いだろうから僕がついていってあげよう。そして君が愛しい人に出会えるまで、僕が君を守ってあげるよ」
「っ……どう……して……?」
羽鳥の言葉に木葉の手が震えた。そんな木葉に気づいたのだろう。羽鳥が自嘲気味に笑うのが聞こえる。
「とうとう僕も見つけてしまったから。番になりたいと思えるただ一人を。でもその人には既に想い人が居て、今にも死にそうだ。君は知らないかもしれないけれど、運命の番を失った龍は長くは生きられない。生きていたとしても、それはほとんど屍だ。僕の祖父のように心の強い龍であれば生き抜いていつか自分を取り戻す事が出来るのかもしれないけれど、僕にはきっと無理だよ。それなら一緒に逝く方が良い。だから木葉、僕を置いて逝くな」
最後の囁くような優しい羽鳥の声に木葉の固く閉じられた両目から涙が溢れ出すのが見える。
「どうしてそんな事……あの方と……同じ事……」
木葉の声が涙で滲んだ。
羽鳥の言葉は深く千尋の胸に突き刺さった。まるで鈴が死んだら後を追っても良いかと尋ねた時の自分のようだ。
どうやら羽鳥はとうに覚悟を決めていたらしい。いずれこうなる事も分かっていて今まで木葉を側に置いていたのかもしれない。
思わず感傷に浸りそうになっていたその時だ。突然木葉が思い切り羽鳥を突き飛ばしたのだ。
千尋はすぐさま円環を出して二人の元へ向かうと、緑色の矢が深々と木葉の胸に突き刺さっている。
「この……は?」
「これ、を。次、は、私が、あなたを——」
突然突き飛ばされた羽鳥は唖然とした顔をして、それだけ呟いて一瞬のうちに動かなくなってしまった木葉を強く抱きしめた。
本当は羽鳥を狙ったのだろうが、いつまでも羽鳥を始末しない木葉に痺れを切らしたのだろうか。
それにしても何の気配もしなかった。これが原初の龍の力を少しでも取り込んだ者の力なのか。
それは屋敷が全壊していた時ととても良く似ていた。皆が口を揃えて「何の気配もしなかった」と言った、あの屋敷の時と。
「一体どこから——」
千尋は振り返り辺りを見渡してとうとう見つけた。五月だ。
五月は矢に倒れた木葉を睨みつけていたが、千尋の視線に気づいた途端に身を翻す。
「私から逃げられると思いますか?」
大して大きな声で無かったはずだが、千尋の声が辺りに響き渡った。それを聞いて五月がこちらを振り返って声を張り上げる。
「私は! あなたの為に! あなたの為にずっと!」
五月の声を聞いた途端、それまで大人しく回っているだけだった龍たちが一斉にこちらを振り向き襲いかかってきたが、千尋は自分たちの周りに結界を張った。
今の羽鳥にはこんな事すらする余裕は無いだろう。
一斉に襲ってきた龍たちは結界を破ろうと必死になっているが、誰一人として千尋の結界を突破出来ない。当然だ。千尋の怒りは最高潮まで来ているのだから。
きっと今の千尋は恐ろしく冷たい顔をしているに違いない。千尋を見る五月の目から涙がこぼれ出す。
「私の為? おかしな事を言いますね。私はあなたにただの一度も何かを頼んだことなどありませんよ」
そう言って千尋はかれこれずっと出っぱなしになっている円環を一斉に五月めがけて放った。その全ての円環は群れになっていた龍たちを避け、五月めがけて飛んでいく。
「あいつ、あの女! 琴音! あいつが! あいつが全部——」
五月の最後の言葉はそこで途切れた。千尋の矢が一斉に五月に襲いかかったからだ。