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第556話

 長い火口を降りきると、そこには黒くて大きな湖があり、その前にはかつては祭壇だったであろう木で出来た棚と陶磁器が転がっていた。それらは今にも風化してしまいそうなほどでもう原型を留めていない。


 千尋は鈴を下ろして人に戻ると、祭壇を見て涙を浮かべている鈴の腰を抱き寄せる。


「さあ、早く終わらせましょう」


 そしてその他のやるべき事も全て終えて家に帰ろう。愛しいあの箱庭に。


 千尋の言葉の全てを理解したかのように鈴が頷き、急いで用意した物を広げ始める。


「お酒、お塩、それから封印の文様と——」


 鈴が風呂敷を開けて中身を確認しながら取り出すのを見て、千尋はその手を止めた。


「それはいりません。こちらを使ってください」

「これは?」

「私の血です。私が原初の龍を引き受けます」


 それを聞いて鈴は一瞬ポカンとして千尋を見上げてきたが、次の瞬間には眉を吊り上げる。


「い、いけません! 木葉さんも封印を勧めると仰っていました! 契約したら千尋さまにも何かあるかもしれないんですよ!?」


 こんなにも千尋に怒鳴る鈴があまりにも新鮮で胸が疼いて仕方ない。ところがそんな千尋に反して何故か鈴の顔が引きつる。


「どうかしましたか?」

「ど、どうかしましたか? はこちらのセリフです……どうして婚姻色を出しているのですか?」

「え? 本当に? 出ていますか?」

「は、はい」

「これは困りましたね。鈴さんに叱られているのだなぁと思うと嬉しくてつい」

「し、叱ったら出るのですか!?」


 困惑と戸惑いが入り混じったような鈴の顔がおかしくて堪らずに千尋は鈴を抱きしめた。


 するといつものように使い果たしたと思った気力や体力がみるみる間に回復していく。


「私は大丈夫ですよ、鈴さん。木葉さんの言葉を信じるのであれば、この湖の水を全て使わなければ原初の龍は永遠にここに閉じ込められたままになってしまう。それでは原初の龍を救ってやって欲しいと言ったあなたの言葉を違える事になってしまいます。そうは思いませんか?」

「そ、それはそうかもしれませんが……」


 千尋の腕の中で鈴が額を千尋の胸に擦りつけてきたが、その肩は微かに震えている。


「それにね、鈴さん。私は聞いてしまったのです。操られた龍達は口を揃えて『止めろ、戻れ、こんな事に使うな』と言っていたのを」

「こんな事に使うな?」

「ええ。恐らく原初の龍は明確に自分の力の使い道を指示していたのですよ。ところがそれがいつの頃からか大きく捻じ曲げられた。それを戻そうとしたのが頼近だったのでしょう」


 ところがそれを元に戻したくない勢力によって、真実はまた闇の中に落とし込まれて王は死に、王の愛した人間の少女は捕虜になり実験体にされてしまった。


 鈴はそれを聞いてとうとう鼻をすすりだす。


「でも、でもそれをしたら千尋さまはまた孤独になりませんか? 誰にも告げられずに苦しむ事になりませんか?」

「あなたはこんな時でも私の心配をしてくれるのですか? そんな事にはなりませんよ。だって私には人の妻が居るのですから。頼近のように」


 そう言って千尋は鈴を強く抱きしめてその耳元で囁く。


「私と秘密の共有をしてくださいますか?」


 それを聞いて鈴がハッとして顔を挙げた。


「もちろんです!」


 その顔は正義感と使命感に溢れている。本当に頼もしい妻だ。千尋にとって鈴はもう誰にも代わりをする事の出来ない存在になっている。


「それにね、鈴さん。私は羽鳥のお祖父様がお祖母様の骨壺を大切そうに庭の木の根元に埋めているのを見て思ったのですよ」

「何を思ったのですか?」

「その時が来たら一緒に眠りにつきたいなと。人のように夫婦が同じ骨壺に入り共に眠りにつく事は、どれほど幸せなのだろうかと。もしも私がこの契約を受ければ、それも叶うのですよ」


 結局は自分の為かと笑われてしまうかもしれないが、それは最後の千尋の夢だ。鈴と共に眠りにつく。これほど幸せな死があるだろうか?

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