「良かったのですか? 頼近の事をお伝えしなくても」
千尋の言葉に鈴は頷く。
「はい。だってそんな事を伝えたら、いつまで経っても木葉さんは羽鳥さま自身を愛せないではないですか」
「確かにそうですね。聞きましたか? 私の妻は伝えろ伝えろと煩いあなたと違い、今を生きている者を大事にするのですよ。見習ってください」
ピシャリと独り言を言う千尋に首を傾げると、千尋が困ったように肩を竦めた。
「羽鳥が頼近だと分かった途端に、真実を話せと煩かったのですよ。言っておきますが、あなたがいかに力を持っていようとも、たとえ神でも、今は私の体を間借りしているだけに過ぎない、ただの居候だと言う事を忘れないでくださいね」
「えっと、喧嘩しないでくださいね? お二人とも」
何だか神という割には高貴な感じではないようで、先程から千尋がずっとお小言を言っている。
鈴にはその声が聞こえないので一体どんな会話をしているのかは分からないが、聞いていると千尋が一方的に文句を言ってそうである。
「あとなんてお呼びすれば良いのでしょうか? 神さまとかですか?」
何となく気になって問いかけると、千尋が宙を見て何か考え込むような仕草をしたかと思うと、薄い笑顔を浮かべて言う。
「これからは彼にも千尋として生きてもらうので名前などいりませんよ。ねぇ? そうですよね?」
その笑顔があまりにも威圧的で鈴は思わず手を叩いてしまった。誰にでも公平な水龍は、たとえ神に対しても少しも態度を変えないし怯まない。
「何よりもあなたの神は私だけのはずです。そうでしょう?」
千尋の言葉に鈴が思わずハッとして顔を上げると、千尋は今度は鈴に向けて優しい笑みを浮かべた。その笑顔はいつだって鈴の心を甘く溶かしていく。
都始まって以来の大事件と言われた歴代の王たちによる原初の龍にまつわる伝説の改ざんと独占行為の真実が暴かれたのは、あれから数カ月後の事だった。
けれど千尋と本人の希望で原初の龍こそが天人だと言う事は伏せられたままにされた。
首謀者になった龍は全て討伐され、原初の龍は千尋が引き受けた事も公表されたが、その事については誰からも批判が出たりしなかったのは言うまでもない。千尋は今も昔もずっと公平で公正な水龍だからだ。
それは全て今まで千尋が都で積み重ねてきた努力と功績が認められたからだ。
そして気になる息吹は無事にそれはもう元気な女の子を出産し、それまでは子育てにいまいちピンと来ていなかったらしい流星の考えを根底から覆し、今や朝から晩まで娘にべったりである。
そして肝心の千尋と原初の龍は。
「皿洗いに力を使うな? 湖の水を減らす為です。我慢してください。これが終わったら庭の水撒きですよ。ああ、ついでに水瓶の水も増やしておきましょうか」
「水瓶を一杯にしておいてもらえるのは本当に助かります。いつもありがとうございます、お二人とも」
鈴の隣で昼食後の皿洗いを手伝ってくれていた千尋が水瓶に水を追加していく。これもきっと原初の力なのだろう。
にこやかに御礼を言うと、少し間をおいて千尋が呆れたように言った。
「鈴さんが御礼を言うと素直に力を使わせるんですね。全く。どう思います?」
「えっと、仲良くしてくれると……嬉しいです」
この二人はあの大事件からずっとこの調子だ。
けれど千尋は言いたい事を言っているし、原初の方もどうやら言いたい事を言っているようなので、案外これで気が合っているのかもしれない。
「なんだい、あんた達、またやり合ってんのかい?」
そこへ雅が汚れた食器を持ってやってきて、一人で喧嘩をしている千尋を炊事場の隅に追いやった。それでもまだ小競り合いをしている二人を見て鈴は微笑む。
「何だか楽しそうです!」
「そうかい? あたし達には聞こえやしないけど、煩いだろ、あれは。そういや今日は木葉が来る日かい?」
「はい! 今日はグラタンを作るんです! 羽鳥さまがエビが好きだとかで、エビの美味しい調理法は無いかと聞かれまして」
木葉はあの後もずっと羽鳥と一緒に暮らしている。
あれほど都一の遊び人だと揶揄されていた羽鳥が、木葉の存在をきっかけにピタリと女遊びを止めたと話題になり、目が見えるようになった木葉は今は週に一度ここへやってきて、鈴と一緒に喜兵衛の料理教室に参加する仲だ。
「菫達の引っ越しはもうじき終わりだしその日はどっかで店屋物でも取るかね」
「そうですね。やっぱり引っ越しにはお蕎麦ですか?」
「そりゃ引っ越した先で配るんだよ」
菫と楽は教員寮を卒業し、小さいけれど家を買った。理由は夏樹が癇癪を起こして寮でボヤ騒動を起こしてしまい追い出されたからだ。それでも二人は夏樹を溺愛している。