目次
ブックマーク
応援する
6
コメント
シェア
通報

第561話

 あの世紀の大事件からそろそろ百年ほどが経とうとしている。


 千尋の中で賑やかに暮らしていた原初の龍は数年前にとうとう都から旅立った。


 湖の水を全て使い終えた瞬間、春の嵐のような強い風を都中に吹かせ、空に割れんばかりの歓喜の声を響かせて。


 御礼なのか何なのかは分からないが、彼が旅立った後、あの砂漠が一晩で花畑に変わった。今ではあの地は原初の龍の花畑として親しまれている。


 体の中から原初の龍が消えてもその呪は残ると聞いて千尋は安堵した。これで鈴と共に墓に入るという夢も叶えられそうだ。もちろん、そんな日が来るのはまだずっと先の事だろうが。


 穏やかに緩やかに毎日は過ぎていく。毎日が幸せで千尋も鈴も相変わらず記念日を数えながら暮らしていた。


 こんな幸せがずっと続くのだろうと思っていたある日の事、千尋は鈴と共に玄関の前で子どもたちが出てくるのを待っていた。


 すっかり元通りになった神森家の屋敷から今日、三人の住人が出ていくのだ。


「寂しくなりますね」


 鈴の言葉に千尋はそっと鈴の手を取って指を絡めた。


「そうですね。ですがこれも成長です。あの子達にとっても、私達にとっても」


 すっかり成長した子どもたちは成人し、とうとうこの箱庭から巣立っていく。長かったようであっという間の時間だった。


「そう……なんですけど、しばらくは寂しくて泣いちゃいそうです」


 既に涙声の鈴の顔を覗き込むと、その両目にはやっぱり涙が浮かんでいる。千尋はその涙を指先で拭ってやった。


「その時は一緒にアルバムを見て思い出を語りましょう」

「はい」


 ここへ来るまでに色んな事があった。鈴との出会いから結婚、そして子ども。その間に何度も大きな事件が起きて千尋達はいつも巻き込まれたが、全てを乗り越えて手にしたものは、あまりにも尊くて夢のような幸せだった。


 千尋が鈴の肩を抱き寄せようとしたその時。


「あー! またパパとママってばいちゃいちゃしてるー!」


 そう言って屋敷から飛び出してきたのは瑠鈴だ。


 鈴そっくりの顔立ちで今や水龍としての力は千尋をも抜いてしまった。元気なのは良いが、とにかく負けん気が強い。


 けれど千尋にとってはかけがえのない宝物だ。


 そんな瑠鈴に続いて今度はもう一人の宝物、千隼が出てきてこちらへやって来ると、千尋と鈴を見るなり苦笑いしている。


「俺らが出てったらすぐに妹か弟出来そうだね、父さん、母さん」

「そ、そんな事ないよ!」

「そうかなー?」


 顔を真っ赤にして慌てる鈴を見て千隼がニヤニヤと意地悪に微笑むが、その顔立ちは完全に甘い千尋だ。


「千隼は弟と妹、どちらが良いですか?」

「えー? 妹は瑠鈴で十分だよ。だから弟かな」

「ち、千尋さままで! もう!」


 耳まで真っ赤にして首を振る鈴が可愛くてつい目を細めていると、千隼と瑠鈴がいつものように言い合いを始める。こんな光景を毎日見るのも今日で最後だ。


「私は妹が良い! 一緒に地上行ってー、旅行するんだー」

「お前は一人で何も出来ないだろ。どうせ着いて来て千隼~とか言うんだから」

「言わないもん! もう大人だもん!」

「はいはい。見かけだけな。お、栄おじ! やっと来た」

「わりぃわりぃ。そんじゃ千尋、鈴、行ってくんぞ」


 最後の一人は栄だ。栄はこの話が決まった時、一番に二人の世話係を買って出てくれた。ここに夏樹も加わる。きっととても賑やかな家になるのだろう。


 ちなみに彼らが今日から暮らすのは千尋が以前住んでいた屋敷だ。


 荷物を持って弥七が運転する車に荷物を詰め込み終えた栄に、千尋と鈴は頭を下げた。


「この子達の事よろしくお願いしますね、栄」

「おお、任せとけ」

「栄さん、二人をどうぞよろしくお願いします」

「分かってるよ。それに夏樹も居るんだ。大丈夫だろ」

「そうでした!」


 栄の言葉に鈴が嬉しそうに顔を上げ、千隼と瑠鈴を抱きしめて頬にキスして回る。千尋も二人を強く抱きしめ、随分大きくなったと感動する。


「それじゃパパママ、行ってきま~す!  週末には戻るからね~」

「瑠鈴の事はちゃんと見張ってるから安心しててよ。あと戯けるのも程々にね、二人とも」


 千隼がそう言って車に乗り込もうとしたその時、ようやく雅と喜兵衛が荷物を沢山持って姿を現した。


「まだ居るかい!?」

「まだ居る!?」

「雅姉! 喜兵衛おじ!」


 二人はうっすらと目元を滲ませていて、そんな二人を見て子どもたちがとうとう涙を零す。


 互いに別れを惜しむように抱きしめ合って挨拶をし、子どもたちが車に乗り込むと、今度は鈴が堪えられなくなったかのように嗚咽を漏らし始めた。


 千尋はそんな鈴の肩を抱き寄せて二人に手を振っていたが、やがて車が発進して後部座席から二人がこちらに向かって目を擦りながら手を振ってくるのを見て、とうとう千尋にも熱い物が込み上げてくる。


 さっきは鈴に偉そうに成長だ、などと言ったが、いざ飛び立ってしまうとこんなにも寂しいのか。


 段々と遠ざかる車を見ていると、子どもたちが生まれた日から今日までの事がまるで走馬灯のように頭の中を巡った。


「……寂しいですね」


 シンと静まり返った庭にぽつんと立ち尽くし千尋が呟くと、鈴がこくりと頷く。


「……はい」


 トボトボと屋敷に入っていく雅と喜兵衛を見送った千尋は、鈴を抱き上げてあの木の根本までやってきていつものようにお気に入りの枝に飛び乗った。


「まだ見えますか?」


 千尋が問いかけると、鈴は寂しそうに首を横に振った。


 鈴の言う通り弥七が操る車はもう見えない。その代わりに見えるのは、すっかり元通りになった神森家の屋敷と鮮やかな夕暮れだ。


「都もすっかり変わりましたね。もう地上の元号は令和ですよ」


 千尋の言葉に鈴が無言で頷く。何か言葉を発すると泣いてしまいそうなのだと、微かに震える鈴の手が物語っている。


「何だか今日まであっという間でしたね。長かったような、早かったような」

「早かったです……とても。あなたと過ごす日々は、いつだってこんなにも愛しくて早い」


 ようやく少し落ち着いたのか、鈴が震える声で呟いた。


「そうですね。会えない時はあれほど長く感じたのに、不思議なものです」


 何度も会えない日々を過ごした二人にとって、こうして共に居られる時間は何者にも代え難い。千尋達はそれをよく理解していた。


 都はあれから地上と連携を取るようになり、いつでも気軽に地上に下りる事が出来るようになった。


 今ではそこで学んだ物をそれぞれが都に持ち帰り、作ったり売ったり進化させたりしている。


 都には車も走り出した。とは言え龍は飛べるので車を使うのは神森家と菫達、そして木葉と婚姻を結んだ羽鳥ぐらいだ。


 一番大きく変化したのは建物で、大正時代のレトロさを残しつつ近代化した建物は地上とは少し違う進化をしている。


 長く生きる龍はガラリと様変わりする事を拒んだのだ。


 けれど千尋はそれで構わないと思っている。龍は龍の、人間は人間の進化をすれば良い。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?