==アンスヴァルト・ブラント・フォン・ドブラ (ドブラ議員)視点==
「厳正なる投票の結果…… 次期元首は、レオトルート・リハルダ・フォン・ベルヴィル…… ベルヴィル議員に決定しました!」
ラタ共和国の中央議事堂。
暮れなずむ景色のなか、高らかに告げる声と割れんばかり拍手の音が響く ――
「ベルヴィル元首!」 「ベルヴィル元首、おめでとうございます!」
おもねった議員どもの口から次々と飛び出しているであろう祝辞を、ドブラは身動きできないままに聞いた。
―― かつては、一流の貿易商として、ラタ共和国の評議会議員として、元首の座にすら手が届く勢いだった。
だが、いまはスライムの置物となり、拘束具と魔力制限装置を付けられ
ときどき思い出したように、滑らかなスライムボディーに落書きをしていく議員はいるものの…… すでに大半の者からは、忘れ去られた存在となっている。
もう、涙も出ない。物理的にも、心情的にも。
たが、この日。
ドブラにとって死ぬよりつらい拷問の日々は、ふいに終わりを告げる ――
夜更け。
小柄な影が、ドブラの横にひっそりと現れた。
褐色の髪と肌、闇に沈むような黒衣をまとっている。高い鷲鼻と頬骨、細い目と頑固そうに結ばれた口元は、砂漠の民の血筋 ――
ドブラは、声にならない悲鳴で彼を迎えた。
(カラヴァノ顧問……!)
「
ややしゃがれた声で、淡々とカラヴァノが応じる。
スライムの置物となったために誰にも聞こえないはずのドブラの言うことが彼に聞こえているのは、人間にしては強い魔力のためだろう。
だがそれが、ドブラにとって必ずしも福音となるわけではない…… カラヴァノは、表向きはォロティア義勇軍の顧問だが、裏では、ボス専属の死刑執行人との噂も高い男なのだ。
それでも、ドブラは希望をかきあつめ、念じる。
(忘れるわけが、ありませんな。ボスの…… ショービン様の片腕といえば、カラヴァノ顧問よりほか、おられぬではないですか)
「今さら、当然のことを……」
カラヴァノの声が、ひやりとした響きを帯びた。
もしドブラが身動きできたなら、崩れてしまうほどに震えていただろう…… しかし。
いま、この置物の身にできるのは、必死で言い訳を試みることだけだ。
(私は……! これまで、ずいぶんと義勇軍に貢献してきたはずですよ…… 奴隷の輸送にしても、
「奴隷の輸送については、ラタ共和国の奴隷禁止令の厳しさを理由に多額の報酬をねだり、しかし奴隷の提供については、ショービン様の要求をのらりくらりと拒否し続けましたね?」
「しかたが、ありますまい……?
「そう、あなたは常にそうですね…… 孤児院に出資しているのだから、それをうまく使えばいいでしょうに」
(いえいえ…… それが、難しいので)
ドブラは置物の身であるにもかかわらず、全身から冷や汗がわきでるような錯覚に襲われていた。
この会話 ―― 猫がネズミを狩る前に、わざと手をゆるめて
(たとえば私は、一般的な手口 ―― 使用人として雇うという口実で孤児を引き抜いて横流しするようなことすら、できないのですよ。疑われてしまいますからな…… 我が邸では
「ほう…… てっきり、慈父と慕われてそのつもりになり、薄汚れた本性を隠したかったのだと、ばかり……
(そ、そうですとも! 昨今の時流が、
「…… 我々の友は、その危険を
「そのような…… 奴隷の輸送だけでも、当方が、大変な労力と危険を冒していたことを、ご理解いただきたいですな。それに、こちらも
「貢献とは…… 貴重な積み荷をすべて
どさり。
カラヴァノがドブラのそばに投げ出したのは、女性の頭部だった。血の気を失った青白い頬に、柔らかな栗色の髪がかかる。
―― ドブラが出資する孤児院の前に棄てられていた赤子。ドブラ自身が名を与え、ドブラを実の父のように慕っていた勉強好きの少女は、やがて忠実な研究員となり、そして、いま……
いつも理知的に輝いているはずの瞳が、いまは、うつろにドブラを眺めている。
(ラリサ……!)
―― なぜ。彼女は、ォロティア義勇軍については、なにも知らなかった。彼女は、優秀な研究員だった。なのに、なぜ。殺さずとも、組織の研究員として
スライムの置物の脳内を、疑問だけが駆け巡る……
ドブラに、カラヴァノは彼女の罪を淡々と告げた。
「それとも…… 彼女が、
(なぜ…… 彼女は、我々のことは知らなかった…… ただの、研究員だったのですよ)
「
(しかし、このような……)
「アンスヴァルト・ブラント・フォン・ドブラ ―― あなたの罪ですよ。しっかりと彼女を管理しておかなかった」
(……! 機会を……! 機会をください、カラヴァノ顧問! 私をこの状況から救い出してさえ、くだされば……! 必ず、
カラヴァノの無機的な砂色の瞳に映る己の姿を ―― スライムの置物を見つめながら、ドブラは必死に
もはや、忠実で仕事熱心だった、実の娘同然の研究員のことは、彼の頭にはない。
生き残ること ―― それだけが、ドブラの望みとなっていた。
だが……
「図々しいですね」
そっけない口調とともに、骨ばった手がスライムの頭上に、かざされる。
「アンスヴァルト・ブラント・フォン・ドブラ。
(で、では……!)
「言い伝えでは 『自身の罪を知らぬまま逝くと永遠に不毛の地をさまよい続ける』 と、いいますから……」
(頼みます……! このような置物の姿でなければ、ここから出られさえすれば! 私は、まだまだ、お役に立てますとも……!)
闇をまとったような手のひらから、いつ、自身を破壊する魔力が放たれるか…… 恐怖心が、ドブラを
(財産は没収されたのだろう、と? いえ! 実は私の真の財産は 『人』 なのですよ。私に心酔している孤児院出身者たちを集めれば、有能な一部隊ができますのでな。それに私自身、強力な神魔法の使い手です。今後は、ボスに…… いいえ、カラヴァノ顧問に直接、お仕えるすると約束しましょう。決して、損は、させま…… っ!)
「神魔法、ですか…… 」
カラヴァノの手から、砂漠の陽光にも似た強烈な魔力がほとばしり、スライムの置物をつつんだ。
バフォメットの 《解析》 の紋章が、透明なスライムの肌に無数に浮き上がり。
一瞬ののち。
さらさらと、置物が崩れていく……
―― 本来、人間は道具もなく無詠唱で魔法を発現させることが、できない。人間は詠唱によって、身体の外から
だが、カラヴァノは強力な魔法を、無詠唱で軽々と使ってみせた ―― 死の直前でさえ人は驚き恐怖することができるのだと、ドブラは身をもって知ったのだった。
(……っ あああ…… な、ぜ……)
カラヴァノは答えない。
それだけでは飽きたらず、彼らは、その砂漠に残っていた男たちを殺し、女子どもを奴隷として売り払い、ついに部族を滅ぼしたのだ ――
(うう…… な、ぜ…… なぜ、です…… あ、ああああ……)
ドブラの思念はしばらくのあいだ、うめき、同じ問いを繰り返し…… やがて、消えていった。
「
カラヴァノは、ドブラだったものの欠片を集めつつ、呟く。
「…… つまりは、引越し前の、大掃除といったところなのですが…… まあ、いまさら聞いても、あなたには関係のないことですよね、アンスヴァルト・ブラント・フォン・ドブラ」
きらり。
呼びかけに応じるように、カラヴァノの手のなかの破片が光る。
だが、それが果たしてドブラの意思のなせる技であったかは、誰も知らないし、気にかける者も、いない。
「では」
カラヴァノが黒衣のマントをひるがえした ―― その姿が、闇に溶けるように消えていく。
あとに残されたのは、壊れた拘束具と、魔力制限装置だけだった。