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第三話 孤島のような集落

2023年11月20日:柴山忠治の死と『孤島の灯台』


 映画監督の柴山忠治が亡くなった。享年八十八。人間心理を巧みに描いた作品を数多く制作した方だが、中でも『孤島の灯台』(1990年)は傑作だ。嵐の中、灯台守が狂気に堕ちる心理描写は圧巻で、ラストの炎に包まれるシーンは絶望の美学だ。あれは日本映画の最高傑作といっても過言ではない。


 それほどの傑作を産み出した監督なのだが、テレビはまるで訃報を取り扱わず。新聞でも隅に小さく載っただけ。ネットもあっちこっちを覗いてみたが、ほぼ無反応だ。三十年も新作を出しておらず、興行成績の全盛期も昭和中期の人なので無理もない、と思う反面、あれほどの才能が、世間からは忘れられているのかと驚愕している。


 ところで最近、妙なことが起きている。夕方の駐車場で黒いコートを着たやつを見た。ハンチング帽、サングラス、マスクで顔は隠してる。右手をコートのポケットに入れっぱなしだが、刃物でも入れているんじゃないのか? それにしても、ずっとこっちを見てきていた。偶然だろうが、気味が悪い。




2023年11月25日:黒コート


 俺は殺されるかもしれない。例の、黒いコートを羽織った人間にだ。毎日尾けてくる。今日もコンビニの前で奴を見た。右手に刃物が光っている。本当だ。最寄りの交番に相談してみたが、防犯カメラをチェックしてみます、とだけ言われて、動く気配がない。


 やつが何者なのか分からないが、純然たる殺意だけはひしひしと感じる。俺の批評が気に入らないのか? まさか……。




2023年11月27日:恐怖そのものだ


 黒いコートを着た人間がまた現れた。毎日毎日、尾けてくる。怖くなってきた。警察に相談しても、自宅周囲にパトロールを増やしますと言う程度。これではどうにもならない。俺はきっと、黒コートのあいつに殺される!




 電車に乗って、事件現場へと向かう途中のことだった。


 窓枠に額を預け、私はスマホで滝山万年筆のブログを読み返していた。


 揺れる車内で、画面に映る彼の言葉が私の胸を締め付ける。


『孤島の灯台』は万年筆先生のブログを見て、私も鑑賞したのだ。確かに傑作だった。雨の日も風の日も灯台守を続けた男が、誰からも愛されず評価もされないまま年を取り、やがて精神を壊していくさまは、涙なしでは見られなかった。


 そして次の記事――黒コートの記述。


 これが頭から離れない。


 指先が無意識にスクロールを繰り返す。


 思えば二〇二三年十一月、私がこのブログを初めて見たときも仰天し、どうしたものか真剣に悩んだ。警察に通報するべきか? いや、しかし……。


 万年筆先生のブログにはコメント欄がついていないため、先生になにかを伝えることもできなかった。後悔している。先生がこんなことになるならば、私はもっと行動をしておけばよかったのだ――


「なるほど、これが滝山万年筆先生のブログですか」


 そのとき隣に座る黒葛川幸平が、私のスマホを一瞥した後、自分の端末を取り出し、やがて滝山のブログを閲覧し始めた。


「こういう流れになったからには、僕もこのブログを見ておかねばなりませんね」


「ええ、ぜひ見てください。事件のためにも、万年筆先生のためにも」


 信者の自分としては、このブログを布教したいという気持ちもあった。黒葛川幸平がこのブログについてどんな評価をくだすのか、興味もある。


 彼は興味深げに画面を見つめ、ブックマークを済ませると小さく呟いた。


「あとで全部、目を通します」


 その言葉に私は胸が温かくなった。


 不謹慎かもしれないが、滝山のファンとして、彼の遺した言葉が誰かに届くことが嬉しかったのである。


「このブログは、読者も多かったそうですね?」


「ええ、書籍化もしているほどですから。……いまでも、ネットの――未解決事件について語る、なんてコミュニティでは、事件とブログ、両方が語られ続けていますよ」


 私は黒葛川幸平に、スマホの液晶を見せた。


【未解決事件 滝山万年筆殺人事件について考察してみよう】


【滝山万年筆と主婦が殺された話についてどう思いますか?】


【未解決・レビュアー廃墟殺人について推理してみようぜ】


「なるほど」


 黒葛川幸平は何度もうなずいて、


「けっこうな盛り上がり方ですね。しかし事件から一年が経ち、彼らのような推理マニアや事件マニアが結集しても、謎は解明できていない、と」


「まあ、私もそうですが、あくまでもマニアですからね。……しかし、たまに想像しますよ。五年後、十年後になっても、あるいは三十年後になっても、万年筆先生のことは、未解決事件として語り継がれてしまうんじゃないかって。そう思うと、とても怖くなります」


「……そろそろ、駅に着きます。降りましょうか」


 黒葛川幸平の言う通り、電車は現場の最寄り駅である矢切駅に到着しようとしていた。




 私たちは矢切駅で下車すると、駅前でタクシーに乗りこんで、やがて千葉県松戸市の田園地帯に辿り着いた。


 田畑が広がり、電柱が連なる風景の中に、小さな住宅街がぽつんと浮かんでいる。


 数軒の、昭和風の家々が寂しげに並んでいるその場所を見た瞬間、


「島のようですね」


 黒葛川幸平が静かに言った。


「確かに」


 私もその感覚を共有した。


 田園に囲まれたこの集落は、まるで孤島のように外界から切り離されている。


 そしてその一角に、明らかに廃墟と化した一戸建てがたたずんでいた。錆びたシャッターが陽光を鈍く反射し、雑草が郵便受けから覗いている。その郵便受けはシャッターに直接取りつけられているものだから、余計にそう感じた。


 事件現場だ。


 私は思わず、ふうっと息を吐きだした。


 ストリートビューで何度か見たことはあるが、本物の現場をこの目で見るのは初めてだった。


 ここで万年筆先生が亡くなったのか……。


「それにしても、いまにも倒壊しそうですね、この家は」


「三十年以上前から、こんな感じらしいですよ。相続人もいるのですが連絡がつかず。たまに廃墟マニアが見物に来るのが近隣住民の悩みだったとか」


「ああ、それも万年筆先生のブログで見ました。万年筆先生も廃墟がお好きで、たまに廃墟巡りをしていましたから。……となると、万年筆先生は廃墟巡りのためにこの場所にやってきて、殺された可能性もありますが……」


「さて、どうでしょうね。……この集落は廃墟があり、その上、事件まで起きたから、一時期は余計に野次馬が増えたらしいです。取り壊しを役所に依頼しても、個人所有だから話がいっこうに進まないそうで」


「お詳しいですね、黒葛川先生」


「来るまでにメールで情報を手に入れました。僕には良い相棒がいますので。事件現場がここだと教えてくれたのもその相棒ですよ」


「相棒?」


 私は首をかしげた。


 すると、背後から大きな声が響いた。


「おおい、黒葛川さん。やあ、やあ、どうも」


 振り返ると、ラガーマン然とした体格の男がスーツ姿で手を振っていた。


 黒葛川幸平が軽く笑って応じる。


「やあ、どうも、鬼塚刑事。……佐野さん、こちらがいま言った僕の相棒です。北千住警察署の鬼塚刑事で、情報を送ってくれた方ですよ、ははっ」


「警察の方ですか。ど、どうも。佐野敦と申します。黒葛川先生に事件の捜査を依頼した者で」


 私は慌てて頭を下げた。鬼塚刑事はこちらを一瞥すると、小さく頭を下げた。


「北千住署の鬼塚と申します。黒葛川さんとは以前からのお付き合いでしてね」


 彼の口調は敬語だが、どこか体育会系的な強さも滲んでいる。私はその雰囲気に気圧されながらも、話を聞き続けた。


 鬼塚刑事は続けた。


「事件現場を見るには許可が必要ですが、私が千葉県警と市役所に話を通しておきました。こいつは確かに妙な事件で、滝山万年筆は亡くなる前に交番にも確かに相談しています。しかし結局、黒コートの人物を見つけることはできず、こんな結果になってしまいました。そんなわけで、警察としては実に痛恨の事件なんですが――黒葛川さんなら、この怪事件を解決してくれると期待していますよ」


「さあ、どうでしょうか。……佐野さん、怖がらなくても大丈夫ですよ。鬼塚刑事ときたら、気は優しくて力持ち。金太郎さんみたいな良い男ですよ、ははっ」


「相変わらずおだてが上手いですね、黒葛川さんは。知ってますか? 警察では『サツ転がしの黒葛川さん』なんて呼ばれてますよ」


「サツ転がしとはよかった。薩摩芋を育ててるみたいですね、ははっ。……さあ、佐野さん、参りましょうか」


「は、はい。行きましょう!」


「ところで黒葛川さん、瀬沼有紗さんは今回欠席ですか?」


「ええ、バイトです。時給が安いから働く時間を増やしたいそうです。本人は来たがっていましたがね」


 どうやら瀬沼さんは、鬼塚刑事と知り合いらしい。


 もしかして、いつも三人で事件を追ったりしているのだろうか。


 私は友達がいないので、黒葛川幸平の人間関係を少し羨ましく思いながら、廃墟へと足を進めたものである。


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