2023年11月30日:黒コートと『赤い影の迷路』
今日は朝から寒そうだったので、外出せずに一日中、家の掃除と読書とネット。
廃墟の画像をいくつも見る。やはり廃墟はいい。人間が確かにそこにいたという生命の息吹、生活の痕跡を思わせてくれる。それでいて、いまは誰も住んでいない。滅びの美学。見ているだけで飽きない。
小説『赤い影の迷路』(著:沢木冬馬)を読んだ。霧の街で殺人鬼が獲物を追い詰めるサイコスリラー。文体は硬派で読ませるが、動機が「芸術のため」ってのは陳腐だ。ラストの逆転も安直で、容易に先読みできる。星二つ半。もっと頭を使え、沢木。頭を使わない人間は糞以下だ。
鬼塚刑事によると、現場の廃墟は昭和三十九年建築の木造二階建てだった。
太陽の光の下でも、その建物は不気味な影を落とし、まるで時間が止まったかのような静寂を漂わせている。
この一戸建て、はるか昔は商店だったらしく、正面には錆びたシャッターが重々しく下りている。左右は住民が住む家に挟まれていた。
そして裏口にはアルミサッシのドアが取り付けられているが、鍵そのものは壊れてしまっていて、その代わりと言わんばかりに南京錠が掛けられている。
「ドアの鍵が壊れたから、南京錠をつけたのかな?」
私がつぶやくと、鬼塚刑事が淡々と答えた。
「妙なことがありましてね。この南京錠、外と内にひとつずつ取りつけられているんです。なので、外の南京錠を外しても、内側のものが開かないと中に入れません」
「外と内に南京錠、ですか」
黒葛川幸平が目を丸くした。
「確かに妙です。不便ですよね。出るにも入るにも両方外さないといけなくなる。なぜ、そんな状態に……」
「お金がなくて、ドアの鍵の修理ができなかったのかもしれませんよ」
私がそう言うと、黒葛川幸平は小さく唸った。
「かもしれませんが、どうも釈然としませんね。この住居は三十年も放置されていたのだから、本来の住民以外が付けた可能性もありますが」
そう言って黒葛川幸平は、じっと、外側に掛けられている南京錠を見つめた。
「古い南京錠ではありますが、三十年も外側に掛けられていたならば、もっと破損している気もします。……しかし現状では、この南京錠についての謎はまだ分かりませんね。保留です」
「まさか、万年筆先生が取りつけた南京錠では」
「だとすると、それはなぜか、と思います」
そう言いながら、しかし黒葛川幸平はそれ以上、話を進めず、一度背後を振り返って、まったく別のことを口にした。
「滝山万年筆先生にしろ、犯人にしろ、この廃墟の中に入ったのはやはり、ここからでしょうね。表側、つまり正面の入り口は施錠されたシャッターが下りていますし、地域の住民にも姿を見られてしまうかもしれない。ですが、この裏口ならば」
黒葛川幸平の視線の先には、見渡す限りの青空と電線、それと田園風景がある。
一キロも西に進めば、東京23区が広がっているとは思えないほど、のどかな景色が広がっていた。
「昼ならばまだ分かりませんが、夜ならば、まず見つからない」
「その通りですよ、黒葛川さん。警察でもその見方をしています。犯人も被害者も、この裏口から中に入ったのだろう、と。もっともふたつの南京錠が、侵入者の前に立ちふさがるのですがね」
「密室殺人――である前に、まず侵入困難であるわけですね、なるほど」
黒葛川幸平は何度もうなずいてから、やがて静かに言った。
「鬼塚刑事、では中に入ってみましょう。シャッターの鍵は持ってきましたよね?」
「ええ、私が預かっております。この鍵についても少しいわくがあるんですが、それについては中で話しましょう」
我々三人は再び表側に回った。
そして鬼塚刑事が鍵を取り出し、廃墟のシャッターを上げた。
ガラガラと鈍い音があたりに響き渡り、埃っぽい土間と、その向こうにある茶の間が姿を現す。
茶の間の畳は真っ黒に変色し、虫の死骸が転々と転がっている。荒廃しきったその光景に、私は涙が溢れそうになった。
ああ、万年筆先生!
こんな場所で死んでしまうなんて!
私は思わず、声を震わせて、
「鬼塚刑事、ここが犯行現場なんですよね? こんなところが……」
「そうです。その茶の間です。ここで滝山万年筆――本名滝山昇平と、三沢坂博子が亡くなっていたわけです」
「刑事、茶の間に上がってよろしいですか?」
黒葛川幸平が尋ねると、鬼塚刑事は「どうぞ。私も行きます」とうなずいた。
三人で、茶の間に足を踏み入れる。