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第五話 廃墟の中で起きていたことは

 空気が重く淀んでいるのが分かった。


 ちゃぶ台は傾き、壁にはカビが這い、窓から差し込む光すら薄暗く感じられる。


 黒葛川幸平は室内を見回し、畳の端にしゃがんで指で触れた。


「この状況で殺人事件だとすると、なぜこんな場所を選んだのか、どうにも理解に苦しみますね。廃墟で密室を作る意味が分かりません。第三者の唾液がついた山芋鉄板についてもそうです。この空気で食事をする意味が見えません。本当に妙な話です」


「確かにそうです。こんな場所じゃ、水だって飲みたくありませんよ」


 薄暗い室内に埃が舞い、鼻をつく空気が肺に重く沈む。黒ずんだ畳の上に傾いたちゃぶ台が寂しげに置かれていた。


 ここに来て気付いたが、この家は、茶の間の奥に台所が広がっている。


 台所の右手にはトイレと浴室。左手には二階へと上る階段。


 そして台所に置いてある、錆びついた冷蔵庫の隣には、例の裏口ドアがあった。


「なるほど、あのドアを開けたら外に出られるわけですね。しかし……」


「南京錠が掛けられていますね」


 黒葛川幸平が言った通り、内側にもしっかりと古い南京錠が掛かっていた。事前の情報通りだ。


「この家はどうやって、中に入ったらいいのか。……二階の窓はどうなっていますかね?」


 と、私は疑問を口にしたが、それは愚問だった。


 二階へ続く階段は腐りかけていて、指で少し押しただけでブヨブヨになっている。おまけに階段の途中三段が崩壊しかけていた。この階段を使うのは無理だ。二階のことは頭から外したほうがよさそうだ。


 私は立ち尽くし、滝山万年筆がこの場所で息を引き取った瞬間を想像した。彼の鋭い批評が響くブログとは対照的な、荒れ果てた空間。胸が締め付けられる思いだった。彼はどんな思いで、人生の最後を迎えたのだろう。


 黒葛川幸平はしばらく、裏口の南京錠を見つめていたが、やがて振り返って今度はシャッターのほうをじっと見据え始めた。その透き通った瞳に、何かを見透かすような鋭さを感じ、私は一瞬息を呑んだ。


「鬼塚刑事。このシャッターの鍵は、どうやって入手されたのですか?」


 すると鬼塚刑事がシャッターの鍵を手に持ったまま口を開いた。


「この鍵は、事件現場の部屋の隅っこに落ちていたんですよ。むろん鑑定しましたが指紋は出ませんでした。誰かが拭いたか、最初から触らないようにしていたんでしょうね。なお事件当時、シャッターが閉まっていたことは、言うまでもありませんが……」


「――ええ、刑事、それもですが。僕がもうひとつ尋ねたいのは、そもそも三十年も廃墟だったこの家の、シャッターの鍵はどこから出てきたのか、ということなんです。ずっとこの家の中にあったのでしょうか?」


「ええと、それはちょっと……」


 鬼塚刑事は首をひねって、


「分かりません。申し訳ないです。恐らく、そうではないかと思うのですが」


「……なるほど。ではもうひとつ質問です。この廃墟の中でふたり揃って亡くなっていた万年筆先生と三沢坂博子ですが、誰が遺体を発見したのでしょう? 廃墟の中、しかも密室状態だったとあれば、誰も中を覗いたり、入ったりすることはできないはずですが」


「ああ、それは説明できます。三沢坂博子はこの廃墟の隣に住んでいるのですが、同居の息子である綾人さんが、朝起きると母親がいないことに気付きましてね。外に出て、近隣住民に『おふくろがいないんだが、なにか知らないか』と尋ねてみたそうです。……ああ、ちなみに博子はすでに夫と死別しており、三沢坂家には博子と綾人しかおりません」


「ふむ。……それで?」


「ええ、それで、その三沢坂博子は、近所の住民と仲が悪かったそうで。だから誰も『知るわけがない。携帯にでもかけてみたらどうだ』と言ったそうです。そこで綾人さんが電話をかけてみると、なんとこの廃墟の中から着信音が鳴り響いた、というわけでして」


「なるほど。それはびっくりしたでしょうね。それで……?」


「ええ、そこで外から中に向かって何度も綾人さんは呼びかけた。ところがうんともすんとも、返事がない。そこで綾人さんは警察に電話をして事情を説明し、その後、警察が地元の合い鍵屋を呼んで、シャッターの鍵を開けて中に突入した。すると」


「ふたりの遺体発見。と同時にシャッターの鍵と山芋鉄板も発見したというわけですか。ふうむ……」


 黒葛川幸平は、腕を組んでしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げて、


「分かりました。とりあえず、いったん外に出ましょうか。この家の中にずっといると、健康に悪い」


 その提案は健全だった。




 廃墟の外に出て、シャッターを元通りにすると、私たちは全員、大きな深呼吸を繰り返した。


「いやあ、こういうとき、綺麗な空気のありがたみが分かりますね、ははっ」


「まったくです」


 私は笑顔を返したが、内心は穏やかではなかった。


 廃墟の中にまで入ったものの、事件の謎はまるで解明されていない。


 私の頭の中で、事件の断片が散らばり、再び形を成しそうでならなかった。


「どうします、黒葛川先生。あまり収穫があったとは思えませんが、いったん帰りますか?」


「帰る……?」


 黒葛川幸平は、心底、意外そうな顔を見せて、


「ご冗談を。本番はここからですよ、ははっ」


「ここから?」


「そうですとも。近隣住民の皆さんに聞き込みを開始するのですよ。万年筆先生といっしょに亡くなった三沢坂博子さんについて。……万年筆先生が有名人で、しかもブログなんて残しているものだから、つい万年筆先生を中心に考えてしまいますが、本当は博子さんのほうが本命かもしれませんよ?」


 あっ、と思わず声が出そうになった。


 確かに、私は万年筆先生の信者なので、万年筆先生のことばかり考えてしまう。


 だがこの事件のメインターゲットは、実は三沢坂博子のほうで、万年筆先生はそれに巻き込まれただけ、と考えることもできるのだ――


「い、いえ、でも」


 そこまで考えた時点で、私は黒葛川幸平に反論したくなった。


「あのいかにも怪しげな黒コートがいるでしょう。あいつがいるのならば、やはり万年筆先生が狙われたと考えるほうが自然では?」


「あの黒コートは、もしかしたら博子さんのあとも尾けていたかもしれませんよ?」


「あっ……」


 今度は本当に声が出た。


「滝山万年筆先生と三沢坂博子さんの間には接点が発見されなかった。でも、もしかしたら、黒コートには殺人に至るための共通点があったかもしれない。


 ……いえいえ、これはあくまで現時点での推理であり想像、というより妄想なので、今後の調査で別の展開になる可能性も大いにありえるのですが、……そのためにこそ、いまから我々はこの住宅街で聞き込みをしなければならないのです。


 そういうわけで参りましょうか、佐野さん。まずはあのあたりの家から……」


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