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第六話 音無父娘

2023年12月15日:追い詰められて『霧の断崖』


 小説『霧の断崖』(著:宮崎悠)。崖の上の屋敷で家族が消えるミステリー。叙述トリックが鮮やかで、最後まで読者を引っ張る。感情が過剰なのは鼻につくが、星三つ半。佳作だ。


 崖といえば、俺の故郷である宮城には蔵王連峰というそれは自然豊かな地域がある。小学校の自然教室で行ったのだが、とても空気が綺麗な良いところだった。もう一度行ってみたいと思いつつ、三十年が経ってしまった。また行ってみたい。


 そんなことを考えていた夜、綺麗なの空気を吸いたくなったのでベランダから出る。蔵王連峰には遠く及ばないが、とにかく少しは良い空気が吸いたくなったんだ。


 すると、黒コートが家の近くにいた。


 街灯の下に立っていた。こちらをじろりと睨んでいた。思わず、逃げようとしたが足がすくんだ。マンションじゃなかったら、俺はやられていたかもしれない。


 奴は俺を追い詰めてる。俺の読者なら分かるだろう? 俺の恐怖を。

 誰か……。




 田園地帯の静寂が私たちを包んでいる。


 遠くで鳥のさえずりが微かに響き、風が雑草を揺らす。


 私たちは近隣住民への聞き込みを始めようとしていた。


 まず目についたのは、廃墟の向かい側に建っている古い家だった。というのも、男性が庭先でゆっくりと草むしりをしていたからである。


「音無佐一郎(おとなし さいちろう)さんです。五十七歳。バスの運転手をされていましたが、二年ほど前に体調を悪くして退職されてからは、もっぱら家にいるそうです。奥さんもすでに亡くなっていて、娘さんと二人暮らし。亡くなった奥さんの生命保険金で生活しているとか」


 鬼塚刑事が、小声で我々に向かってささやいた。


 黒葛川幸平はうなずいて、音無佐一郎に近づいていった。


 彼は、私たちを見ると手を止めた。背中が少し曲がり、日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。


 鬼塚刑事が名乗りをあげると、「ああ、警察の方……」とつぶやいて、警戒心を緩めたような雰囲気を見せる。そこへ黒葛川幸平が、三沢坂博子について尋ねたい、と話を持ちかける。


「三沢坂さんかい。一年前に、ずいぶん警察やマスコミにしゃべったと思うけどね」


「そこをもう一度、改めてお願いします。三沢坂博子さんについて、どんな印象をお持ちですか?」


「故人を悪く言うのもなんだけど」


 と、音無佐一郎は前置きしたうえで、


「あいつは嫌な女だったよ。傲慢でさ、自慢ばかりでさ、すぐキレる。でっかい身体を揺らしてさあ、毎日、ギャアギャアとなにかに喚いていて。近所じゃ嫌われていたよ。いい年こいて、若いアイドルの追っかけまでやっていてね、毎月のようにライブに出かけたりしていたんだ。それに三沢坂さん、息子の綾人くんともそりゃあ仲が悪くてね。よく怒鳴り声が聞こえてた。『お前なんか出ていけ!』なんて叫んでたのを覚えてるよ」


 彼の声には苛立ちが滲んでいた。


 黒葛川幸平はメモを取りながら、さらに尋ねる。


「事件の前後に、なにか変わったことはありませんでしたか?」


「それもずいぶん警察に話したけれどね。まあいいや。事件の少し前、妙な奴を見かけたんだよ。黒いコートを着たやつが、この辺をうろついていたんだ。サングラスにマスクをしていたから、顔は見えなかったけれどね。気持ち悪い雰囲気だった」


 その言葉に私はハッとした。


 滝山万年筆のブログに登場する、黒コートの人間だ。間違いない。私は黒葛川幸平と顔を見合わせた。やはり事件と関連があるのか?


「事件の、どれくらい前から登場していたのですか? その黒コートの人物は」


「どうだったかな。三か月、いや半年……うん、事件の前年の、十一月くらいには出てきていた。近所でも話題になったもんさ。ありゃなんだ、誰かが宴会芸でもしているのか、コスプレじゃないのか、なんてね。あいつは結局、なんだったのか分からないままだな」


 黒葛川幸平は静かにうなずき、


「ありがとうございます。では次の質問なのですが、三沢坂博子さんが亡くなったあの家は、もともと誰のもので、どういうお宅だったのか。音無さんはご存じですか?」


「あそこはな、もともとは普通の家だったんだが、あの家の奥さんが、自分の店をやりたいって言いだして、それで家の一部を改装して、雑貨屋みたいなことを始めたんだよ」


 音無佐一郎は、なぜかちょっと嬉しそうになって、


「だけどね、こんな田畑のど真ん中で商売をやり始めたって、うまくいくわけがないよね。いまだったら、ネットもあるから話は違うかもしれないけれど、当時はそんなもんなかったし。あっという間に商売がダメになって……それから三年くらい経って、ご夫婦が揃って亡くなってしまってねえ」


 と、ここまで喋ると、音無佐一郎は、今度はちょっとしょぼくれて、


「気の毒なことに、お子さんにも先立たれていたからね。それで、ええと、後に亡くなったのは奥さんだったから、我々町内の人間で、簡単にだけど葬儀とか納骨とかを済ませたんだよね。といっても、おれじゃなくて親父たちの世代の話だから詳しくは知らないんだけど」


 充分、詳しい気がするが、そこはあえて触れずにおく。


「それで、家は無人になっちゃって。確か疎遠にしている甥っ子か誰かが相続人だった気がするけれど、詳しくは覚えていないね。とにかく人がいなくなって、あんな風になったんだ。……無理にでも、壊しておけばよかったね。こんなふうに、殺人の現場になってもまだ家が残っているなんて不気味だよ」


 三沢坂博子が亡くなったことよりも、町内に人が死んだ廃墟があるのが嫌だという感じの、音無佐一郎の言い方に、私は少々、義憤めいたものを感じた。


 と同時に、廃墟本来の持ち主だった夫妻が、雑貨屋を始めた話などが、三十年以上経ってもこうして誰かの記憶に残っていることそれ自体が、少し羨ましくも感じた。


 あの家はただの不気味な廃墟ではない。人が死んだ現場というだけじゃない。かつては誰かが確かに暮らし、生きていた場所なのだ。……


「ありがとうございます。参考になりました」


 黒葛川幸平は、丁寧に礼を言った。そして、


「では最後の質問ですが、三沢坂博子さんの息子さん――」


「ああ、綾人くん」


「そうです、その綾人さんについてもお尋ねしたいのですが――」


「本人に聞いたほうがいいと思うがね。まだ、そこに住んでいるし」


 音無佐一郎は、廃墟の左隣に建っている小さな一戸建てをあごで示した。


 この人は、なんだかやっぱり横柄だな。


 私は胸の中にモヤモヤするものを感じた。


 だが黒葛川幸平はニコニコ笑って、意に介したふうもなく、


「他の方から見た話も、うかがいたいのですよ」


「と言われてもなあ。綾人くんだったら、うちの娘のほうが詳しいかもな。学校が同じだったからね。……おおい、杏奈(あんな)」


 そう言って、音無佐一郎は庭の奥に向かって声をかけた。


「なぁにぃ」


 甲高い声が返ってきた。


「警察の方が、綾人くんについて聞きたいと」


「だからなにぃ」


「ちょっとこっちへ来なさい。杏奈の出番だ」


「なんで、あたし……」


 ぶつぶつ言いながら登場したのは、黒髪を無造作な感じでポニーテールに結った、眼鏡の女性だった。年齢はおそらく三十前後、つまり私と同世代だろう。


 薄いシャツにデニム姿の、どこか投げやりで、気怠い空気を漂わせた彼女は、私たちを一瞥すると、会釈すらせずに、


「音無杏奈(おとなし あんな)、二十九歳です。無職。三沢坂綾人先輩のことをお尋ねらしいですが、あたしとあの人は確かに小学校と中学校で一年違いでした。でもろくに話もしたことがないので、質問されてもなにも分かりません。以上です、もういいですかね?」


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