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第七話 その女、その笑顔、その片思い

2024年1月10日:誉めと敵と『灰色の仮面劇』


 映画『灰色の仮面劇』。仮面の殺人鬼が劇場で観客を殺すサスペンス。カメラワークの緊張感、暗闇での恐怖描写は出色だ。犯人の正体がバレるのは惜しいが、星四つ。近年稀な傑作だ。


 それにしても俺の敵は消えない。どうしても欲しい古本があったので、タクシーを使って神保町に向かったが、古書店巡りの三軒目で、やつに見つかった。黒コートが、遠くからじっと俺を睨んでいたのだ。刃物の光がまた見えた。俺はすぐにタクシーをアプリで呼んで、自宅まで逃げ帰ったのだ。


 年も明けたばかりだというのに。

 もしかしたら、来年のいまごろはもう、俺はこの世にいないかもしれない。

 そのときは、読者諸氏、俺のことを警察に伝えてくれ。黒コートを捕まえてくれ!




「おい、杏奈――」


 まるで反抗期の中学生みたいな言いぐさをする娘に、さすがの音無佐一郎も慌て顔だ。


 どこか威張っていた感じの音無佐一郎が困っているのを見て、私は少しだけ気持ちがよかった。もっとやれ、と心の中で思ってしまう。


「ええと、ですね。杏奈さん……」


 黒葛川幸平が、ぺこぺこしながら前に出た。


「どうもすみません、いきなりお呼びだてしてしまって。綾人さんについてはそれで分かりました。どうもありがとうございました。ついでながら、三沢坂博子さんについても、杏奈さんの思うところを聞かせていただけませんか?」


「思うところって、別に。……嫌なババアだったね。やたら太っていて、偉そうでさ、近所のみんなに、夜までうるさいだの、家の前をもっと掃除しろだの、文句ばっかり。自分はどうなのって感じだった。みんなに嫌われていたよ。そのくせ、アイドルのライブに行ったらなぜか土産のチョコとか配ったりする人だったから、やっぱり変だなと思っていたよ。……殺されたのなら、ま、自業自得だね」


「こら、杏奈。いくらなんでもその言い方は――」


「この人が、思うところを、なんて言うから本音を言っただけだよ。悪い?」


「いいえ、ちっとも悪くありませんよ。参考になります」


 黒葛川幸平は相変わらずニコニコ笑っている。


 その笑顔のためか、音無杏奈は毒気を抜かれたみたいにちょっと微笑んで、


「あなたも変わった人だね。目の前であたしが怒っているのにケロッとして。マイペースって言われない?」


「いやあ、それほどケロッとしてはいませんが」


 黒葛川幸平は頭をかきながら、


「なにしろ、こちらは人が亡くなった事件の捜査をしていますからね。その途中でオロオロとうろたえるようでは、亡くなった人に申し訳が立たないというものです」


 なるほど、と思った。


 黒葛川幸平なりの努力だったわけだ。感情をあまり乱した様子が見えないのは。


 プロ根性というか、なんというか。私は黒葛川幸平を、心から凄いと思い始めていた。


 音無杏奈も、目を見張って、


「……そうだね。人が死んでいるんだよね。いくらあのおばさんでも。そうかぁ」


 と、反省した表情を見せた。


 そして、


「新情報かどうかは知らないけれどさぁ」


「なんでもいいので、教えてください」


「三沢坂博子って、しょっちゅう綾人先輩とケンカしていたよ。事件の前日も『殺す』だの『死ね』だの、激しい罵声を交わしてた。なんだったかな、そう『殺すぞババア』『どうせできんやろ、あんたなんか!』みたいな感じで……」


 その言葉に、私も、黒葛川幸平も、鬼塚刑事も、音無佐一郎でさえも驚愕の面持ちとなった。


「杏奈、お前、そんなこと一言も……」


「お前って言うな。――だって聞かれなかったし。それにあの親子の仲が悪いのなんてこの町内じゃ有名だから、言うまでもないと思ってさ。これ、貴重な情報なの?」


「貴重ですね。いくら日ごろから不仲といっても、事件前日の口喧嘩となると、少し意味合いが違ってきます」


「そうなんだ。じゃあついでに、もうひとつね」


 杏奈はちょっと楽しそうに、


「綾人先輩、半年くらい前から、よくその廃墟の前をジロジロ見てたよ。自宅の窓から、カーテンもかけずに、ぼうっと。……ただぼうっとしていただけかもしれないけど、ね。あはは」


「ジロジロ見ていた……」


 黒葛川幸平は深刻な顔をして、


「……滝山万年筆、ブログ、黒コート、密室、廃墟、山芋鉄板、三沢坂博子、綾人、ジロジロ、ふたつの南京錠……」


 事件に関するキーワードをぶつぶつとつぶやきながら、宙を見つめる黒葛川幸平。


 杏奈はその景色を見て、瞳を光らせる。


「ねえ、もしかしておたく、探偵さん? 警察とは思えない感じなんだけど」


「ええ、まあ、確かに、警察ではありませんが……しかし事件の謎を解く者です。少しずつですが、謎の根本が見えてきた気がします」


「……黒葛川さん。……三沢坂家に行ってみませんか」


 と言ったのは、鬼塚刑事だった。


「三沢坂博子の息子、綾人はまだ、家にいるはずです。改めて聞き込みをしましょう」


「面白そうだね。あたしもついていこうか? 綾人先輩、偏屈だから、いきなり行ってインターホン鳴らしても無視するかもよ。相手が警察でもね。その点、あたしが行けばたぶん相手をしてくれるから。仮にもご近所で、昔の後輩だからね」


「こら、杏奈。ご迷惑をかけるようなことはするな――」


「ああ、いえ、ご迷惑なんてとんでもない」


 黒葛川幸平は手を振って、


「杏奈さんに来ていただけると、我々も助かります。確かに綾人さんは、我々だけで行ったら居留守を使われそうですからね」


「いいね! 探偵っぽいひと、話せるね! じゃあたし、行くからね。ずっと退屈してたんだ」


 対面したときとは打って変わって、朗らかな笑みを見せる杏奈。


 こんな笑顔ができるのか、このひとは……。


 彼女を見て私は、可愛い、魅力的だ、と思い始めていた――


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