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第八話 集落の住民たち

2024年2月5日:『夜の螺旋』


 小説『夜の螺旋』(著:藤田零)。夜の街を彷徨う男が狂気に堕ちる。文体は詩的で読ませるが、展開が遅い。「人生は虚無だ」を三百ページ繰り返すのは冗長だ。星二つ半。雰囲気だけじゃ読者は満足しない。


 黒コートがまた、外にいた。昨夜だ。カーテンの隙間から影が見えた。俺の心は焼かれ始めている。これだけブログに書いたのに、誰も俺を心配してくれないのか、見てくれないのか。恐怖が俺を焦がす。写真を撮った(添付)。これが証拠だ。俺は見捨てられたくない!




 我々は音無家を離れて、三沢坂博子の息子、綾人に会うことにした。


 彼は廃墟の隣の家に住む男で、杏奈の一学年先輩にあたる。


 木造モルタルの三沢坂家、その門前に到着して、黒葛川幸平がインターホンを鳴らす。


 しばらく待ったが、案の定、反応はない。


 すると、


「三沢坂先輩、いませんか? せんぱーい」


 杏奈がインターホンを鳴らしながら、友達でも遊びに誘うみたいに大声を張り上げる。強気な態度に、私はおろか、鬼塚刑事までちょっと驚いていたが、黒葛川幸平だけは涼しい顔をしていた。


 やがて、


「うるせえなあ!」


 ヤケクソじみた声と共に玄関ドアが開き、男が登場した。


 坊主頭に、痩せた体と無精ひげ、目が虚ろで無愛想。


「なんだよ、お前ら。……音無までいるし。なんの集まりだよ」


 これが三沢坂綾人だろう。殺気さえ漂っているその表情に、私は思わず後ずさったが、黒葛川幸平は、このスキを逃さぬとばかりに前進し、


「お休み中のところ、申し訳ありません。僕はお母様の事件を捜査している黒葛川幸平という者です。こちらは北千住署の鬼塚刑事と、協力者の佐野敦さんです。一年前の事件について、改めてお尋ねしたいのですが」


「いまさらなんだよ。あれはもう迷宮入りで終わりなんだろう?」


 舌打ちしながら、三沢坂綾人。その光景を見て「人に向かって舌打ちすんな」と小さくつぶやく音無杏奈。綾人は、じろりと杏奈を睨んで、


「ケンカを売りに来たのかよ」


「ま、ま、ま。……綾人さん、落ち着いて。すみませんね、すぐに終わりますから」


「すぐにって何秒だよ。三秒か。一、二、三、はい終わり。帰った帰った」


 まるで小学生だ。


 三沢坂綾人の幼稚な態度に私は呆れた。


 鬼塚刑事もムッとした顔で前に出ようとしたが、黒葛川幸平はそんな刑事を手で制して、


「ま、そう言わずに。ご協力くだされば、高級焼肉をおごりますよ。ええ、食べ放題でいかがですか。金町のほうに美味い店を知っているんです」


 突然、焼肉なんて単語が出てきて、我々はあっけに取られた。


 だが、すぐに三沢坂綾人は噴き出して、


「なんだよ、焼肉って。本当に奢ってくれんのか?」


「もちろんです。和牛をいくらでもご馳走します。ご存じですか、牛肉は、子供を産んでいないメスが一番脂が乗っていて美味しいのです。一度、食べにいきませんか」


「残酷。あーあ、人間って残酷ぅ」


 杏奈が微笑を浮かべながら、おどけたようにつぶやく。


 さながら、漫才のつっこみのようだった。


 私を除く誰もが、笑い始めてしまった。場の空気が変わった。黒葛川幸平の、コミュニケーション能力の高さを思い知った。私にはとても、こんな真似はできない。


「あんた、面白いひとだな。……分かった、分かったよ。また事件当時のことを話してやるよ。でも、前に警察に話したことと変わらないぜ?」


「恐れ入ります、それで結構です、ええ」


「ええとだな、つまり――そう、事件の少し前くらいから、このへんに、黒いコートを着た妙なやつがうろつき始めた」


 また、黒コートか。


 私は黒葛川幸平の横顔を見つめた。


 彼の表情は微動だにしていない。


「こんな狭い地域だから、よそ者がいたらすぐに分かる。……とはいえ、おれはあまり気にしていなかった。例の廃墟を見物に来たマニアだと思って、ぼんやり眺めていた。おふくろは気味が悪いって嫌がっていたけどな」


「なるほど。あなたが自宅の窓から、ぼうっと廃墟の前を眺めていたという証言もあるのですが、それはただぼんやり眺めていただけ、というわけですね?」


「誰だよ、そんな証言したの。家の中でぼうっとするのも外を見るのも勝手だろう、本当にこのへんのやつらはいやらしいな」


 これについては、綾人の言い分も分かる。


 人間、ぼうっと外を見たいときもあるだろう。


 杏奈は涼しい顔をしていた。口笛でも吹きそうな顔だ。彼女の肝の太さに、私は感嘆した。


「それで、ええと、なんだ。つまり事件当日さ……」


「お待ちください。……綾人さん、あなたが事件前日にお母様とケンカをしていたという話も、聞いているのですが」


「ん? ああ……」


 三沢坂綾人は、じろりと杏奈を睨んだ。


 お前だろう、余計なことを言いやがって、という顔にも見える。


「確かに口喧嘩はしたよ。日ごろの生活態度とかそういうのでさ。でもそれは別に珍しいことじゃないだろ。親子喧嘩なんて、どんな家でもやってるさ。なあ、音無?」


「……まあ、そうですね……」


 杏奈は目をそらした。


 彼女自身も、親とよく喧嘩をしているのだろうか。確かにそんな気配はある。


「ま、そういうわけで日頃と変わらぬ生活を送っていたわけだ、うちは。……それで、あの朝、つまりおふくろの遺体が発見された朝。おれは家の中におふくろがいないことに気が付いた。散歩にでも行っているのかと思ったが、一時間経っても帰ってこない。追っかけてるアイドルのライブかとも思ったが、それはその翌週の予定だったしな。


 なんだか妙だなと思って、おふくろのスマホにラインを入れたが、既読もつかない。なんだか嫌な予感がして、外に出て、たまたまそこにいた音無の親父さんに尋ねてみたんだ。『おふくろがいないんですけれど、なにか知りませんか』ってね」


「ふむ。……それで……」


「音無さんは知らないと言った。そこに他の近所の連中も来たから、おふくろのことを聞いたんだ。でもさ、おふくろってキレやすい性格だったから、まわりとまるでうまくいっていなくてね」


 杏奈が小声で「あんたもキレやすいでしょ」と言ったが、綾人には聞こえていないようだった。……ほっとした。


「誰もが『知るわけがない』って言ってね。そして音無さんが『携帯にでもかけてみたらどうだ』って言うから、ま、それもそうだと思っておれは携帯電話に掛けてみたんです。そしたら、その廃墟の中から着信音が鳴ったもんだから、みんなびっくりして――」


 私は改めて廃墟を眺めた。


 世界の終わりそのものみたいなこの家から、スマホの着信音が流れ出したら、ホラー映画顔負けの怖さだろうな。


「まさか、この中におふくろがと思って、何度も呼びかけたんだ。でも返事がなくて、シャッターも当然開かないし、裏口にだって南京錠が掛かっている。これはいよいよダメだと思って警察に通報して、あとは警察と合い鍵屋がシャッターを開けて、おふくろが見つかった、ってわけだ」


「あのときは先輩、やばかったね。おふくろ、おふくろってわめきながら廃墟の中に突っ込んでいって、警察の人に止められていたし」


 杏奈が冷ややかに言った。


 綾人はじろっと、また杏奈をにらんで、


「お前な、そりゃそうだろ。母親が死んでるって聞いたら、わめくぐらいはするぜ。いくらケンカばかりしていたって言っても、親なんだぜ?」


「お前って言うな。……はい、すみません、あたしが生意気でした。そうですね、お母さんが死んだらパニックにくらいなりますよね、そうですよねぇ~」


 セリフこそ謝罪しているが、態度がやはり良くない。


 綾人はまた杏奈をにらんだ。


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