2024年2月5日:『夜の螺旋』
小説『夜の螺旋』(著:藤田零)。夜の街を彷徨う男が狂気に堕ちる。文体は詩的で読ませるが、展開が遅い。「人生は虚無だ」を三百ページ繰り返すのは冗長だ。星二つ半。雰囲気だけじゃ読者は満足しない。
黒コートがまた、外にいた。昨夜だ。カーテンの隙間から影が見えた。俺の心は焼かれ始めている。これだけブログに書いたのに、誰も俺を心配してくれないのか、見てくれないのか。恐怖が俺を焦がす。写真を撮った(添付)。これが証拠だ。俺は見捨てられたくない!
我々は音無家を離れて、三沢坂博子の息子、綾人に会うことにした。
彼は廃墟の隣の家に住む男で、杏奈の一学年先輩にあたる。
木造モルタルの三沢坂家、その門前に到着して、黒葛川幸平がインターホンを鳴らす。
しばらく待ったが、案の定、反応はない。
すると、
「三沢坂先輩、いませんか? せんぱーい」
杏奈がインターホンを鳴らしながら、友達でも遊びに誘うみたいに大声を張り上げる。強気な態度に、私はおろか、鬼塚刑事までちょっと驚いていたが、黒葛川幸平だけは涼しい顔をしていた。
やがて、
「うるせえなあ!」
ヤケクソじみた声と共に玄関ドアが開き、男が登場した。
坊主頭に、痩せた体と無精ひげ、目が虚ろで無愛想。
「なんだよ、お前ら。……音無までいるし。なんの集まりだよ」
これが三沢坂綾人だろう。殺気さえ漂っているその表情に、私は思わず後ずさったが、黒葛川幸平は、このスキを逃さぬとばかりに前進し、
「お休み中のところ、申し訳ありません。僕はお母様の事件を捜査している黒葛川幸平という者です。こちらは北千住署の鬼塚刑事と、協力者の佐野敦さんです。一年前の事件について、改めてお尋ねしたいのですが」
「いまさらなんだよ。あれはもう迷宮入りで終わりなんだろう?」
舌打ちしながら、三沢坂綾人。その光景を見て「人に向かって舌打ちすんな」と小さくつぶやく音無杏奈。綾人は、じろりと杏奈を睨んで、
「ケンカを売りに来たのかよ」
「ま、ま、ま。……綾人さん、落ち着いて。すみませんね、すぐに終わりますから」
「すぐにって何秒だよ。三秒か。一、二、三、はい終わり。帰った帰った」
まるで小学生だ。
三沢坂綾人の幼稚な態度に私は呆れた。
鬼塚刑事もムッとした顔で前に出ようとしたが、黒葛川幸平はそんな刑事を手で制して、
「ま、そう言わずに。ご協力くだされば、高級焼肉をおごりますよ。ええ、食べ放題でいかがですか。金町のほうに美味い店を知っているんです」
突然、焼肉なんて単語が出てきて、我々はあっけに取られた。
だが、すぐに三沢坂綾人は噴き出して、
「なんだよ、焼肉って。本当に奢ってくれんのか?」
「もちろんです。和牛をいくらでもご馳走します。ご存じですか、牛肉は、子供を産んでいないメスが一番脂が乗っていて美味しいのです。一度、食べにいきませんか」
「残酷。あーあ、人間って残酷ぅ」
杏奈が微笑を浮かべながら、おどけたようにつぶやく。
さながら、漫才のつっこみのようだった。
私を除く誰もが、笑い始めてしまった。場の空気が変わった。黒葛川幸平の、コミュニケーション能力の高さを思い知った。私にはとても、こんな真似はできない。
「あんた、面白いひとだな。……分かった、分かったよ。また事件当時のことを話してやるよ。でも、前に警察に話したことと変わらないぜ?」
「恐れ入ります、それで結構です、ええ」
「ええとだな、つまり――そう、事件の少し前くらいから、このへんに、黒いコートを着た妙なやつがうろつき始めた」
また、黒コートか。
私は黒葛川幸平の横顔を見つめた。
彼の表情は微動だにしていない。
「こんな狭い地域だから、よそ者がいたらすぐに分かる。……とはいえ、おれはあまり気にしていなかった。例の廃墟を見物に来たマニアだと思って、ぼんやり眺めていた。おふくろは気味が悪いって嫌がっていたけどな」
「なるほど。あなたが自宅の窓から、ぼうっと廃墟の前を眺めていたという証言もあるのですが、それはただぼんやり眺めていただけ、というわけですね?」
「誰だよ、そんな証言したの。家の中でぼうっとするのも外を見るのも勝手だろう、本当にこのへんのやつらはいやらしいな」
これについては、綾人の言い分も分かる。
人間、ぼうっと外を見たいときもあるだろう。
杏奈は涼しい顔をしていた。口笛でも吹きそうな顔だ。彼女の肝の太さに、私は感嘆した。
「それで、ええと、なんだ。つまり事件当日さ……」
「お待ちください。……綾人さん、あなたが事件前日にお母様とケンカをしていたという話も、聞いているのですが」
「ん? ああ……」
三沢坂綾人は、じろりと杏奈を睨んだ。
お前だろう、余計なことを言いやがって、という顔にも見える。
「確かに口喧嘩はしたよ。日ごろの生活態度とかそういうのでさ。でもそれは別に珍しいことじゃないだろ。親子喧嘩なんて、どんな家でもやってるさ。なあ、音無?」
「……まあ、そうですね……」
杏奈は目をそらした。
彼女自身も、親とよく喧嘩をしているのだろうか。確かにそんな気配はある。
「ま、そういうわけで日頃と変わらぬ生活を送っていたわけだ、うちは。……それで、あの朝、つまりおふくろの遺体が発見された朝。おれは家の中におふくろがいないことに気が付いた。散歩にでも行っているのかと思ったが、一時間経っても帰ってこない。追っかけてるアイドルのライブかとも思ったが、それはその翌週の予定だったしな。
なんだか妙だなと思って、おふくろのスマホにラインを入れたが、既読もつかない。なんだか嫌な予感がして、外に出て、たまたまそこにいた音無の親父さんに尋ねてみたんだ。『おふくろがいないんですけれど、なにか知りませんか』ってね」
「ふむ。……それで……」
「音無さんは知らないと言った。そこに他の近所の連中も来たから、おふくろのことを聞いたんだ。でもさ、おふくろってキレやすい性格だったから、まわりとまるでうまくいっていなくてね」
杏奈が小声で「あんたもキレやすいでしょ」と言ったが、綾人には聞こえていないようだった。……ほっとした。
「誰もが『知るわけがない』って言ってね。そして音無さんが『携帯にでもかけてみたらどうだ』って言うから、ま、それもそうだと思っておれは携帯電話に掛けてみたんです。そしたら、その廃墟の中から着信音が鳴ったもんだから、みんなびっくりして――」
私は改めて廃墟を眺めた。
世界の終わりそのものみたいなこの家から、スマホの着信音が流れ出したら、ホラー映画顔負けの怖さだろうな。
「まさか、この中におふくろがと思って、何度も呼びかけたんだ。でも返事がなくて、シャッターも当然開かないし、裏口にだって南京錠が掛かっている。これはいよいよダメだと思って警察に通報して、あとは警察と合い鍵屋がシャッターを開けて、おふくろが見つかった、ってわけだ」
「あのときは先輩、やばかったね。おふくろ、おふくろってわめきながら廃墟の中に突っ込んでいって、警察の人に止められていたし」
杏奈が冷ややかに言った。
綾人はじろっと、また杏奈をにらんで、
「お前な、そりゃそうだろ。母親が死んでるって聞いたら、わめくぐらいはするぜ。いくらケンカばかりしていたって言っても、親なんだぜ?」
「お前って言うな。……はい、すみません、あたしが生意気でした。そうですね、お母さんが死んだらパニックにくらいなりますよね、そうですよねぇ~」
セリフこそ謝罪しているが、態度がやはり良くない。
綾人はまた杏奈をにらんだ。