2024年2月19日:怖い
食料はけっきょく、配達してもらった。それも家までじゃなくて、配達ボックスに。これでまた籠城できる。
俺はさ、正直に言うと死ぬのが怖いんだよ。怖いっていうか、死んだら終わりってのが耐えられない。意識がなくなって、何も感じられなくなって、ただの『無』になるって想像するとゾッとする。
それ以上に怖いのが、死んだら忘れられること。自分が生きてた証なんて、時間たったら誰も覚えててくれないんじゃないかって思うと、寂しくて仕方ない。
だから、先日観たアニメに出てきた不死のキャラを見ていると、羨ましいんだ。死んでもよみがえるって、永遠に生き続けられるってことだ。俺だったら、そのチャンスがあったら絶対手放さないよ。生き続けて、いつまでも、ブログを続けて、批評を繰り返したい。いつまでも、いつまでもだ。
私はいま、音無家の建っているあの集落の前にいる。
ニュースで杏奈の死を知った私は、居ても立っても居られなくなり、大急ぎで音無家へ向かったのだ。
タクシーを使う金銭的余裕がない私は、電車に乗って、それからみずからの足で移動したのだ。こういうとき貧乏というか無職の自分があまりにも情けない。黒葛川幸平にもずっと電話を掛けているが、出ない。私はひとりだった。
そして、現場はもっと警察がいっぱいいるかと思ったが、不気味なほど人はいなかった。音無家の前も、例の廃墟の前も、誰もいない。野次馬すらいない。杏奈は本当に死んだのか? 私は混乱しながら、スマホでニュースサイトを調べた。
29歳女性が一戸建て住宅で首つり自殺か 警察が経緯を調査
5月13日、千葉県松戸市内の一戸建て住宅で、29歳の女性、音無杏奈さんが首を吊った状態で発見され、死亡が確認されました。
警察によりますと、当日午前8時頃、同居する両親からの通報を受けて駆けつけた救急隊が現場で遺体を確認したということです。
音無さんは両親と3人で暮らしており、室内には遺書とみられるメモが残されており、警察は自殺の可能性が高いとみて、詳しい状況や背景について捜査を進めました。
近年、若年層の自殺が増加傾向にある中、専門家は「家庭内での孤立感や精神的な負担が影響する場合もある」と指摘しており、支援の必要性が改めて注目されています。
「やっぱり間違いない。杏奈だ。あの杏奈だ……」
私はがっくりとうなだれた。
田園のにおいが、鼻につく。
なんで、と思わずつぶやいてしまった。
自分でも分からないくらい、その場で茫然自失としていた私だが、やがて矢切駅に向かってトボトボと歩き始めた。
杏奈の死は、私の心に深い傷を刻んだ。まるで霧が立ち込めた断崖から転落したかのように、足元が崩れ落ちる感覚が続いていた。
「自殺。本当に自殺なのか?」
同じ集落の中で、それも数軒しか家がない場所で、こう次々と人が亡くなってたまるものか。
「連続殺人じゃないのか……」
駅前に着くと、私は震える手でスマホを握り、彼女の最後のメッセージを何度も読み返した。
【分かった、事件の真実が分かったよ】
【滝山万年筆も、三沢坂のお母さんもどうして死んだのか、あたしは全部わかったんだよ。わかっちゃった。そりゃそうなるよねって感じ】
【でもね、でもね、でもねー】
【あんたに教えてなんかやるもんか。真実には自分で辿り着け!】
「なにが分かったんだよ」
つぶやきながら、涙をこらえる。
「教えてくれればよかったのに」
初めて会った時の投げやりな態度、不貞腐れた声、でもちょっとだけ笑顔を見せてくれて、一瞬だけ輝いた瞳。そして、寂しいことばかり言葉にする――
私は彼女に惹かれていた。事件を一緒に追う仲間になれるかもしれない。もしかしたら、もっと仲良くなれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた。だが、現実は残酷だった。彼女は死に、私は一人になったのだ。
駅から電車に乗って、北千住へと戻っていく。
そのときだ。スマホが震えた。
【黒葛川幸平です。音無杏奈さんのことはもう知りましたか?】
――知っています。実は音無さんの家の前まで行きました。誰もいませんでしたが。
黒葛川幸平からのメッセージにそう返すと、二十秒ほど間があってから、
【一手、遅かったです。僕がもう少しだけ早く動いていれば、こんなことにはならなかった】
――どういうことですか?
【今夜、よろしければ会いませんか? 実際にお会いして、話がしたいのです】
そんな気分にはなれません。
と言おうとして、やめた。
こんなところで落ち込んでいて、どうするんだ。
私は事件の謎を解明しなければならない。せめて、黒葛川幸平や警察の手助けをしなければならない。
滝山万年筆が、三沢坂博子が、そして音無杏奈がなぜ亡くなったのか。殺されたとしたら、犯人はあの黒コートなのか。黒コートの中身は誰なのか。私はなんとしても、それを突き止めたいのだ。
――分かりました。会いましょう。コハクコーヒーに行けばいいですか?
【コハクコーヒーは本日、定休日です。あのですね、僕はいま、所用で千葉大の松戸キャンパスのあたりにいますので……】
【佐野さんはいま矢切を出たばかりですよね? でしたら、よろしければ、金町で会いませんか。いい居酒屋を知っています】
――承知しました。では金町でお会いしましょう。
その後、私は京成高砂駅で下車し、京成金町線に乗り換えて金町駅へと向かった。
すでに少しずつ、町の景色が夕焼けで染まり始めている。外から見たら、きっと私が乗っている車両は紅で染まりきっていることだろう。西の果ての真っ赤な光が、杏奈の命の灯火を燃やし尽くしているような気がして、私は思わず顔を伏せた。このままだと、声をあげて泣いてしまうと思ったから。
人間なんて、勝手なものだ。
夕陽なんて、これまでに何千回と見てきたのに、今日という日の太陽にだけ特別な意味を見いだして。
寅さんで有名な柴又駅を越えて、私は金町に到着した。