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第十三話 金町の一角、探偵役の謎解き

2024年3月20日:『血塗られた銀幕』


 映画『血塗られた銀幕』。映画館で上映中に殺人が起きるホラー。血糊が過剰で笑えるし、動機が「復讐」なのはありきたりだ。だが、上映中の恐怖を映すアイデアは悪くない。星三つ。もう少し磨けば化けた。


 窓を久しぶりに開けた。風が気持ちよかった。黒コートはいない。良かった。いくら俺でもたまには太陽の光を浴びないとだめだな。


 商業から依頼された批評の仕事は、すべてネットでこなしてきたが、編集者から久しぶりに会いたいという連絡が来た。対面だから伝わることがある、という主義の編集さんなので電話やメールだけでのやり取りは困難。そろそろ、外に出るべきときが来たのか。タクシーでも使えば、なんとかなるか。




 私は金町の居酒屋で、黒葛川幸平と会うことにした。


【例の、美味い焼肉屋も駅の裏にありますが】


 と、黒葛川幸平はラインで言ってきたが――


 そういえば、そんな話もどこかでしていたな。


 しかしさすがに焼肉を食べる気にはならない。そこまで食欲がない、と言った。けっきょく、黒葛川幸平がすすめてきた普通の居酒屋に決めた。


 店内は客で賑わい、ビールのジョッキがぶつかる音や笑い声が響いている。私はカウンター席でスマホを開き、滝山万年筆のブログを眺めていた。


 やがてドアが開き、黒葛川幸平が現れた。


「やあ、どうも……」


 黒葛川幸平は薄く笑っていた。


 杏奈が死んだっていうのに、なんて表情を、と思わずカッとなりかけたが、しかし黒葛川幸平は、私が杏奈に片思いをしていたことなど知らないのだから無理もないと思い、負の感情を消すことにした。


 そうだ、黒葛川幸平からすれば、杏奈はたった一日出会っただけの人間だ。


 杏奈が死んだことに、驚いてはいるかもしれないが、さほど思い入れもないはずだ。もちろん、私が惚れたことだって気付くはずもない。


「佐野さん、好きなものを頼んでください。会計は僕が持ちますよ」


「……いいんですか?」


「誘ったのは僕ですからね。なんでもどうぞ」


 と言われても、酒をほとんど飲めない私は、とりあえずウーロン茶を注文しますと言った。すると黒葛川幸平が、


「ははっ、ここは素晴らしいお店なんですよ。なんとメニューにアイスコーヒーがありましてね」


「はあ、ありますね。……えっ、まさか、良いお店、というのはそこ一点だけで」


「……? 他になにかありますか?」


 黒葛川幸平は、心底、意味不明という顔をしたので、私は呆れて、


「お好きなんですね、アイスコーヒーが」


 とだけ言った。


 思えば確かにこの人は、いつもアイスコーヒーを飲んでいる気がする。


「好きですね。人類が生み出した最高の宝はなにかと問われたら、モナ・リザかアイスコーヒーか、と答えるくらいに好きです」


「そ、そこまで好きとは……」


「そういうわけで、すみません。とりあえず、ウーロン茶とアイスコーヒーで」


 どのあたりがとりあえずなのか。


 居酒屋でふたり揃ってウーロン茶とアイスコーヒーとは、下戸の私でさえこれは嫌がらせではないかと思ったが、せめて食事は高いものを注文しようと思った。支払いは黒葛川幸平だが……。


「ところで、佐野さん」


 黒葛川幸平は、運ばれてきたおしぼりで手を拭きながら真顔になり、


「音無杏奈さんの一件ですが」


「は、はい。黒葛川先生、あれは自殺だと報道されていましたが」


「それなんですがね、鬼塚刑事にも電話をして、それと千葉県警まで実際に行って確かめて来たんですが」


「県警にまで。あっ、まさか、さっき千葉大の松戸キャンパス近くにいると言っていたのは」


「その通りです。松戸キャンパスの近くに千葉県警の本部がありますからね。知り合いが少しいるもので、音無さんの自殺について確かめてきました」


 この人は、どれだけ人脈が広いのか。


 黒葛川幸平の底知れなさに、私はやはり呆然としながらも、


「それで、音無さんは本当に自殺したんですか? まさかそう見せかけた殺人事件では」


「いいえ、音無さんは自殺です。それについては疑いがありません」


「そ、そんな」


 あの投げやりな態度は、そう思わせるところが確かにあった。


 けれども私は、あの杏奈が自死、というより死んだということがどうしてもまだ認められない。


 私は感情を抑えきれず、身を乗り出した。


「黒葛川先生、私は音無さんが自殺したとは思いたくありません。これは連続殺人事件ですよ。万年筆先生に、三沢坂博子さんに、音無杏奈さんの三人はきっとあの黒コートに殺されたんですよ。なんとかしてください!」


「……ふうむ……」


 黒葛川幸平は、雌雄眼でじっと私を見据えてくる。


 そのとき店員が、アイスコーヒーとウーロン茶、それに焼き鳥の盛り合わせ、枝豆、モツ煮込みなどを運んできた。


 黒葛川幸平はストローでアイスコーヒーをすすり、じっと宙を見た。


「佐野さん、これは確かに妙な事件です。密室に南京錠、謎の唾液付きの山芋鉄板、黒コートの人物、調べ始めた瞬間に自殺を選んだ女性。謎があまりにも賑やかです」


「賑やかなんて、悠長なこと言っている場合じゃないですよ。……音無さんはきっと、なにかに気付いたんです。それで殺されたんだ。絶対にそうです」


「なにかに気付いた、とは」


「それはもちろん、事件の真相に、です。これを見てください」


 私は杏奈と交わしたラインの数々を、黒葛川幸平に見せた。


 すると黒葛川幸平は、ほう、と、口をすぼめて、私のスマホに見入ったものだ。


「……音無さんは、事件の真相に気がついた。どんな真相だったのか」


「分かりません。でも、黒コートの人間が犯人だという証拠じゃないですか?」


「黒コート……黒コート……」


 黒葛川幸平は、アイスコーヒーをさらに飲んでから、枝豆をみっつ、一気に口中に放り込むと、


「そもそも、その黒コートが妙なのです」


「ええ、そりゃ妙ですよ。妙なやつです」


 私はうなずいたが、黒葛川幸平が言いたいのはそういう意味ではないようで、


「……ブログの中に登場し、廃墟の周辺にも登場し、挙げ句の果てには神保町にタクシーで向かった万年筆先生までつけまわしている。魔法使いかなにかのような行動力と追跡力。しかし犯人だとしたら、以前にも申し上げた通り、あれほど刃物をちらつかせておきながら、殺人に使う手段がトリカブトという奇妙さ。それでいて」


「それでいて……?」


「万年筆先生と三沢坂博子が亡くなってからは、一度も登場していない」


「それは……」


「消えてしまった。ウェブからも、現実からも。それはなぜだと思いますか?」


 居酒屋の喧騒に包まれながら、私はウーロン茶をすすって、渇いた喉を潤した。


「それは、万年筆先生と三沢坂博子を殺すことで、目的を果たしたから……」


「となると、音無さんを殺したのは黒コートではないことになりますね?」


「いや、でも……まあ……」


 我ながら、芸のない返事しかできていないと嫌になる。


 黒葛川幸平は、もう一度、アイスコーヒーを飲んでから言った。


「音無さんは自殺で確定しています。警察が断定しました。遺書も残しています」


「あ――そ、その遺書はどこに? そうだ、その遺書はもしかして、偽造の可能性は……」


「いまは地元の警察署にあるそうですが、偽造の可能性はゼロです。確実に本人の筆跡でした。遺書の中身は、いろいろと書いてありましたが、要約すると『自分が嫌になった。社会も嫌になった。滝山万年筆のブログを見て、さらに絶望した』」


「絶望?」


「『どこに絶望したのかというと、ブログそのものよりも、滝山の生きざまそのものです。なぜかと言うと、滝山万年筆はそれなりに有名で、お金もたぶん持っていたと思う。そんな滝山でさえ、絶望してああいう死を選んでしまったのだから、このあたしもこれから生きていて良いことがあるとは思えない』……そういうことです」


「滝山でさえ、絶望してああいう死を選んでしまった?」


 私は言葉の意味が分からずに、視線をさまよわせる。


「どういうことですか。それじゃ、まるで万年筆先生が自殺したみたいに――」


「まさしくそうです。音無さんは、思案の末か、直感的にか分からないが、そこに気が付いてしまったのですよ」


「そんな、まさか、まさか」


「そのまさかなのです、佐野さん」


 黒葛川幸平は、雌雄眼を光らせた。


「僕もこの事実に気が付いたのは、今日の朝でした。遅かった。もう少し早ければ、音無杏奈さんを救うことができたかもしれない。悔やんでも悔やみきれませんが……結論を申し上げます」


 聞きたくなかった言葉が、彼の口から発された。


「滝山万年筆先生の死因は、自殺です」


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