2024年4月5日:だめだ、だめだ、だめだ!
ずっと家に引きこもっていたが、仕事があるから仕方なく今日、外に出た。朝からビクビクしながらタクシーに乗り込み、出版社に向かって、編集さんと会って、近くの喫茶店で用事を済ませたんだ。そしてなんとかトラブルなく終わるかと思った矢先だよ。帰り道、路地裏からいきなりそいつが飛び出してきた! 黒コートだよ!
目が合った瞬間にゾッとした。俺、咄嗟に全力ダッシュだよ。心臓バクバクして、足ガクガクなのに止まることができなくてさ。後ろから、やつの足音が聞こえる気がした! 振り返る余裕もない。ただひたすら走って、人混みに紛れてなんとか逃げ切った。流しのタクシーに飛び乗って、家に着いたら速攻鍵をかけて、いま震えながらこれを書いている。
仕事を終わらせた達成感なんか吹っ飛んで、恐怖しかないよ。もう外に出たくないけど……。
黒コート、お前は何が目的なんだよ! マジでやめてくれ!
「佐野さんは、万年筆先生のブログをずっとご覧になっていますよね?」
「ええ、何度も。あの黒コートの話が出てくる半年前の分から、ずっと読み返しています。悲しいですよ。万年筆先生、死ぬ前はすっかり追い詰められていたみたいで……」
「追い詰められていたとおっしゃいますか。確かにそんな感じの文章ですね。『俺は殺される』とか『追いかけられている』とか。そんなことを連続して書いています。しかし、どうでしょう、失礼ながら、少し演技っぽくはありませんか?」
「演技?」
私は眉をひそめた。
「はい。常に悲壮感がたっぷりですが、どこか計算しているようにも感じませんか」
「……意味が分かりません。万年筆先生が自殺だとしたら、黒コートの人間はいったいなんなんです? それに、そんなことをする動機は? 三沢坂博子のことは……」
「三沢坂博子のことは、いったん置いておきましょう。まずは万年筆先生です。
いいですか、万年筆先生は自殺を計画しました。それもただ死ぬのではなく、極めてドラマチックに、他人から注目されるような死に方をしたいと思ったのです。そのために、亡くなる半年前から黒コートの人物を、作り出した」
「自作自演というわけですか? この黒コートは! まさか……」
「そういうことになります。黒コートの自分をタイマーで撮影したり、あるいは黒コートを着て廃墟の周りをうろついたりして、滝山万年筆を狙っている人物がいると周囲に思わせた。そしていまから約一年前、ついに自殺を決行したのです」
あまりの論理に、私は唖然とした。
「そんな、まさか……」
「自作自演だったとすれば、黒コートがいつも万年筆先生の近くに現れていたこと、さらにタクシーで向かった神保町にいきなり黒コートが出現したことも説明がつきます。相談を受けた警察が捜査をしても、黒コートの人物が見つからなかった理由も。
時おりブログに出てきた、添付された写真がよくブレていたのも、当然、わざとでしょう。補正機能などを使わずに、撮影していますからね。鮮明な写真を貼れば、読者に自演であることがバレてしまいますから」
「し、しかし……」
私はまだ、納得がいかず、
「なぜ……なぜ、そんなことを……? 滝山万年筆先生はブログも書籍も動画も順調で、向かうところ敵なしだったのに」
「ええ、万年筆先生は遺書を書いていない。ですから、ここから先は僕の推測になりますが、思うにブログのこの日、この記述がポイントです」
そう言って、黒葛川幸平が見せてくれたのは、
2023年11月20日:柴山忠治の死と『孤島の灯台』
映画監督の柴山忠治が亡くなった。享年八十八。人間心理を巧みに描いた作品を数多く制作した方だが、中でも『孤島の灯台』(1990年)は傑作だ。嵐の中、灯台守が狂気に堕ちる心理描写は圧巻で、ラストの炎に包まれるシーンは絶望の美学だ。あれは日本映画の最高傑作といっても過言ではない。
それほどの傑作を産み出した監督なのだが、テレビはまるで訃報を取り扱わず。新聞でも隅に小さく載っただけ。ネットもあっちこっちを覗いてみたが、ほぼ無反応だ。三十年も新作を出しておらず、興行成績の全盛期も昭和中期の人なので無理もない、と思う反面、あれほどの才能が、世間からは忘れられているのかと驚愕している。
ところで最近、妙なことが起きている。夕方の駐車場で黒いコートを着たやつを見た。ハンチング帽、サングラス、マスクで顔は隠してる。右手をコートのポケットに入れっぱなしだが、刃物でも入れているんじゃないのか? それにしても、ずっとこっちを見てきていた。偶然だろうが、気味が悪い。
「この日の更新から、黒コートが登場します。つまり、恐らく柴山監督の死が万年筆先生の奇妙な自殺のきっかけとなったのです」
「なぜ? なぜ柴山監督の死が万年筆先生の自殺に繋がるのですか。私は理解できない!」
「忘れられるのが嫌だったのですよ。万年筆先生は」
やかましい居酒屋の中だというのに、急にしいんとなって、空気が冷え込んだようだった。
「本を出し、批評家として人気抜群の万年筆先生だったのですが、尊敬していた映画監督が亡くなり、世間がそれにほとんど無反応だったことにショックを受けた。万年筆先生はきっとこう考えたのです。『柴山監督ですら忘れられてしまうなら、俺はどうなるんだ。死んだらすべて忘れられてしまうのでは』と……」
「だからって、どうして自殺を」
「だからこそ、黒コートが登場したのです。だからこそ、山芋鉄板や密室が登場したのです」
「なんですって?」
「万年筆先生が目指したのは、『異様な状態で殺された自分』であり『未解決事件』です。
『令和を代表する希代の批評家、滝山万年筆は、小汚い廃墟の中、黒コートに殺された。それも食べかけの山芋鉄板と密室の中で! 警察はもちろん捜査したが、誰も謎を解明できないまま事件は迷宮入りとなった!』
……これが万年筆先生の理想だったのです。なぜなら、奇妙な未解決事件で殺されたのであれば、忘れられないから。死後何十年と経っても、未解決事件マニアの間で語り継がれるから」
「な……な……」
私は黒葛川幸平の展開した推理に、愕然としながらも、あるいはそれが正解か、と思い始めた。
黒葛川幸平の推測の通りになっているのだ。滝山万年筆は奇妙な方法で殺され、事件は迷宮入り。現状はそうなっている。こんな奇妙な殺され方をしたせいで、ネットでは確かにいまでも、滝山万年筆のことが話題になっている。
自殺を他殺に見せかける。
ミステリーではよくある話だ。
しかし、それを実際に見てしまうと……。ましてその動機が、忘れられたくないから。
つまり歪んだ承認欲求だったと言われると、滝山万年筆にはそういう一面があったことを私は否定できない。
別の日の更新では、滝山万年筆は、忘れられたくないという叫びを残し、あるいは語り継がれる未解決事件についての思いを必死に執筆しているのだ。
「……いえ、でも、ちょっと待ってください。だったらあの山芋鉄板は? 付着していた唾液は? 廃墟に入れない謎や、密室のトリックはいったいどうなったんですか?」
「山芋鉄板については、そうですね――」
そのとき、隣に座っていた客がレジへと向かい始めた。帰宅するのだろう。彼らはもったいないことに、料理を食べ残していた。
そのメニューは、山芋鉄板――
黒葛川幸平は、さっと食べかけの山芋鉄板をみずからのほうに引き寄せた。
居酒屋は賑わっている。誰も、黒葛川幸平の行動に気が付かない。恐らく、その山芋鉄板をこっそり持ち帰っても、気が付く人間はいないのではないか――
「こういうことです。山芋鉄板じゃなくても、なんでもよかったのですよ。他人の食べかけの料理であれば。これを盗んで、自殺の現場に置いておくことで、誰かと食事をしていた滝山万年筆が毒を盛られて死んだ、では山芋鉄板についている唾液はいったい誰のものだ、とみんなが思う。事件の異様さがまたひとつ増えるんです。
廃墟に入る方法も、そう難しいものではありませんよ。あの廃墟のシャッターの鍵は、それほど複雑なものではありません。警察だって鍵屋を連れてきて開けたくらいですからね。万年筆先生も、鍵屋に依頼してシャッターの合い鍵を作ってもらったんでしょう」
頭がくらくらしてきた。
霧で包まれていたかのような滝山万年筆の死の謎が、どんどん解けていく。
嬉しさはあまり感じない。それよりも、ミステリアスな空気に包まれていた批評家の化けの皮が剝がされていくようで、悲しさと哀れみさえ感じてしまう。
「じゃあ、黒葛川先生」
私は、滝山万年筆の弁護人を務めているような気持ちになって、
「密室の謎は? そして三沢坂博子の死については、どうお考えですか。あれもまさか自殺だと?」
「博子さんについては、そうですね」
黒葛川幸平は、ちょっと考えたふうに首をひねってから、
「場所を変えましょうか。次は人がいないところで話したほうがいい。お時間はありますか?」
「あります。こうなったら、とことん付き合いますよ。最後の瞬間まで」
黒葛川幸平は、うなずいた。
会計を済ませ、ほとんど食べなかったメニューはテイクアウトした。
もっとも、隣席から取った山芋鉄板だけは、そっと隣に返しておいた黒葛川幸平であった。