2024年4月15日:焼かれる心と『鏡の向こうの嘘』
小説『鏡の向こうの嘘』(著:高梨真琴)。鏡に映る自分と入れ替わる話。アイデアは良いが、心理描写が浅い。「実は夢だった」は最悪だ。星一つ。読者を馬鹿にするな。
黒コートは俺の影なのか? 今度はスーパーの駐車場で追いかけてきた。叫んでも誰も助けてくれない。俺の心は恐怖の炎で焼かれている。誰かに助けてほしい。このブログはいまの俺の叫びなのだ。もういっそ、殺すなら早くしろ! 俺は自分の心の重さに、もう耐えられない!
金町駅の前から江戸川に向かって歩いていく。
ややあって私と黒葛川幸平は、河川敷の上に立ち、揃って夜景を眺めるのだった。
遠くに見える街の明かりが点々と、数珠(じゅず)のように連なっている。空に星が見えない分、地上に天体が現出したかのようだった。
「あの集落で、ネズミや虫が死んでいたという話がありましたね?」
黒葛川幸平が話題を切り出した。
「ええ、中尾あゆみさんが言っていましたね」
「あれは恐らく、万年筆先生がどこからか連れてきて、行った毒殺の実験だったのでしょう。トリカブトを使って小動物や虫を殺すことで、確実に死ねるかどうか、という」
「ああ……」
みずからの終焉を劇的に彩るために、無関係の生き物まで殺害したのか、滝山万年筆は。
命をなんだと思っているのか。承認欲のために自分の命まで簡単に放り投げられる人間は、他の命だって粗末に扱ってしまうのか。
「さて、そんな風に実験を繰り返していた万年筆先生を見て、利用できるのでは、とたくらんだ不逞(ふてい)の輩がいます。その人物を仮にXと呼びましょうか。Xは暇だった。暇だったからこそよく観察し、よく推測し、よく立案し、そして実行できた。
――黒コートの男が集落にやってきては、廃墟に出入りしたり、小動物を毒殺したりするのを、Xはよく見ていたのです。その毒がトリカブトであることも、恐らく調べたのでしょう。だからこそ、思ったのです。
『いま三沢坂博子を殺せば、この黒コートのせいにできる。チャンスさえあれば』
Xは行動しました。まず廃墟の裏口ドアを破壊して侵入し、自由に出入りできる立場になる。そして鍵が掛かっていなかったらまずいから、南京錠を手に入れて――それも、廃墟に似合うような中古の南京錠をわざわざ手に入れて、表に取りつけた。
万年筆先生は廃墟に何度か出入りしたと思いますが、南京錠には気が付かなかった。自分の家ならばともかく、たまにやってくるだけの廃墟ですからね。南京錠の存在なんて気が付きませんし、気が付いても『前からついていたのかな』としか思わない。
そして運命の日。滝山万年筆はシャッターを開けて中に入る。Xは注意深くそれを見ていた。そして家にいた三沢坂博子の食事に同じトリカブトの毒を盛り殺害した。と同時に廃墟に入り、滝山万年筆を殺そうと思った。
そう、Xの目的は、三沢坂博子を毒殺して廃墟に運び込み、さらに滝山万年筆も廃墟の中で殺して、まるで心中か、不気味な殺人事件に仕立て上げることだったのです。
もっとも、廃墟の中で滝山万年筆は自殺してしまっていました。これはXにとっては意外な展開でしたが、殺す手間が省けたのが逆に良かった。Xは三沢坂博子の遺体を廃墟に運び込んだ。
そして表だけでなく裏側にも南京錠を取り付けた。南京錠が表だけでは、密室というイメージになりにくいですからね。そして最後に、自分はシャッターから外に出て、万年筆先生が作った合い鍵を使ってシャッターに鍵を掛ける。
こうして、毒で自殺した万年筆先生。隣には食べかけの山芋鉄板。毒殺された三沢坂博子。表と裏の南京錠。ふたりの死亡時刻が三時間もズレていること。……すべての謎が完成した……」
「ま、待ってください。では密室は? シャッターの鍵は、現場の部屋の隅に落ちていたんですよね? あれはどう説明するんですか?」
「あれこそ、もっとも単純なトリックですよ」
そう言って黒葛川幸平は、ポケットから何かを取り出した。
どこにでもある輪ゴムだった。
黒葛川幸平は、路上から小さな石ころを拾って、
「この石ころを鍵だと思ってください」
と言うと、輪ゴムを使って、石ころをひゅっと飛ばした。
石ころは闇の中へと飛んでいく。
「小学生のころ、こうやって紙きれや消しゴムを飛ばしたりしませんでしたか?」
「え、ええ……しました……。まさか……まさか……」
「あの廃墟のシャッターは、穴が開いていましたね。郵便受けです。郵便や新聞を入れたら屋内に直接入っていくタイプの。あの郵便受けから、輪ゴムを使って合い鍵を中に飛ばせばいいんです」
「な、なんという単純なトリック!」
「そう、恐ろしく簡単なものです。今回の事件は、ひとつひとつを見ていけばそう難しい事件ではなかったのですが、シンプルなトリックの事件に、万年筆先生独特の動機による自殺が噛みあい、さらに有名人による自作自演のブログまで残されていたことで複雑怪奇に見える事件だったのです」
私は、がっくりとうなだれた。なぜうなだれたのか、自分でもよく分からなかった。力が抜けた、とでも言ったほうが正しい気がするが……。
「残った疑問としては、どうして万年筆先生があの廃墟を死に場所に選んだのか、という点です。万年筆先生は廃墟好きでもあったようだし、松戸市にひとりでお住まいだった。自宅から近い廃墟を選んだ、という考えが一番成り立ちそうですが」
「確かに自宅から近いということもあるでしょう。それに黒葛川先生がおっしゃる通り、万年筆先生は廃墟が好きでした。廃墟を題材にした映画についてもレビューを残しています。そしてずいぶん昔のブログ記事に記述をしていました。自分が死ぬならばこういう廃墟がいい、というような……」
「なるほど。そういうことですか」
黒葛川幸平は大きくうなずいた。
「黒葛川先生」
「はい」
「三沢坂博子を殺した、Xとはいったい誰なんですか」
「もうお分かりなのではありませんか? 佐野さんも」
「……ええ、まあ」
三沢坂博子を殺す動機を持った人物は、ひとりしかいない。
「三沢坂綾人。博子の息子ですね」