数日後、私は北千住の『コハクコーヒー』のカウンター席でアメリカンを一口飲んでから、意を決して口を開いた。
「黒葛川先生、僕の自分史を代筆してほしいんです。万年筆先生のものではなく」
黒葛川幸平はアイスコーヒーのストローから口を離し、透き通った雌雄眼で私をじっと見た。
「万年筆先生のファンでいらっしゃった佐野さんが、今度はご自分が主役になりたいと」
私は首を縦に振った。
「私はずっと万年筆先生に憧れていました。批評家として、誰かを惹きつける力がある彼に。でも、先生と一緒に事件を追ううちに気づいたんです。私は彼じゃない。音無杏奈でもない。私は私自身の物語を生きなければいけない」
彼は黙って私の言葉を聞いていた。
私は目を伏せ、テーブルに置いた手を握りしめた。
「私は名探偵の伴奏者として、事件を追いかける脇役でもいいから、物語の脇役になりたいと思っていました。でも、それじゃだめなんです。そして、誰かの脇役にならなくてもいいんです。私には私だけの物語があり、役割があり、人生があり、思いがある。それに気が付いた過程を、先生に書いていただければと思うんです。佐野さんは佐野さんだと言ってくれた黒葛川先生に。誰かに読まれるためだけじゃなくて、自分自身のために」
カフェの外、路上の喧騒が遠くに聞こえる中、彼は静かにうなずいた。
「佐野さん、ずいぶんお変わりになりましたね」
「先生のおかげです。事件を解いてくれただけじゃなくて、私に生きる意味をお与えくださいました」
私の声はかすかに震えていた。
黒葛川幸平はアイスコーヒーをすすり、窓の外に目を向ける。
「ははっ、僕はそんな力のある人間ではありません。ですが、よろしいでしょう。お引き受けいたします。それで、どのようなお話を書きますか? 事件のことでしょうか?」
「事件もそうですけど、それだけじゃないんです。無職で、社会に居場所がなくて、カフェに通ってた日々。滝山万年筆のブログにすがって、自分を何かにつなぎ止めようとした時間。そして、先生と一緒に事件を追ったことで見つけた、自分だけの道。全部書いてほしいんです」
黒葛川幸平は小さく笑った。
「にぎやかな自分史になりそうですね。文体はどのようにしましょうか。万年筆先生のように、悲壮感たっぷりにいたしますか?」
「私は、私の話し言葉そのままでいいです。みっともなくても、大したことがなくても、それが私ですから」
そのとき、彼の目に再び温かみが宿った気がした。彼はアイスコーヒーのグラスを手に持ったまま立ち上がり、私に背を向けた。
「分かりました。では、今日から始めましょうか。まずは佐野さんの人生をすべて、じっくりとお聞かせください」
「はい。ありがとうございます、先生」
私は頭を下げ、胸に熱いものが込み上げるのを感じた。
そのとき、瀬沼さんがカウンターに立ち、私に笑顔を向けた。
「事件が解決してよかったですね、佐野さん。なんだか顔つきも以前と変わりましたよ」
「そうかな。ありがとう、瀬沼さん」
私は照れ笑いを浮かべた。
黒葛川幸平はすでにノートを開いて、ペンを手に持っている。
「さて、佐野敦さんの物語。どこからお始めになりますか?」
「そうですね……。まずプロローグは、この『コハクコーヒー』で、瀬沼さんから黒葛川先生のことを聞いたときからでいいかな。あの日が、私の人生の転機だったから」
彼はうなずき、ペンを走らせ始めた。
「よろしいですね。では、その日からお書きいたします」
私はカウンターに置かれたアメリカンに目を落とす。
コーヒーの水面に映る自分の顔は、確かに少し変わったように見える。
最後にひとつ、解決していなかった悩みはいま、消えた。
滝山万年筆の影を追いかけるだけではなく、自分自身の道を歩み始めたい。
事件は終わったが、私の物語はここから始まる。
<完>