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ある夏の記憶と、六十一本のアイスコーヒー

第一話 コーヒーの楽園へようこそ

「見ての通りです、黒葛川先生」


「これはこれは。桃源郷もかくやですね」


 瀬沼有紗(せぬま ありさ)の声が花火のように弾け、黒葛川幸平(つづらがわ こうへい)もまた、目の前の景色に心を奪われ、ただ呆然――


 黒葛川たちがいるのは、ごく平凡な、古びた一軒家の中である。


 目の前のキッチンスペースには、冷蔵庫がふたつ配置されている。


 片方は少し古びた普通サイズのもの。


 そしてもう片方は、まるで冷蔵庫界のラスボスとでも言うべきか、威圧的なまでにデカい冷蔵庫だ。黒葛川の視線は、特にそのデカい方に釘付けになっていた。


 なぜなら、その中には未開封のボトルコーヒーや缶コーヒーが、まるで美術館の展示品のように整然と並んでいたからだ。


「ここは天国でしょうか。僕はそれほど日ごろの行いが良かったのでしょうか?」


 黒葛川の口調はいつも通り穏やかだが、かすかに震えているようにも聞こえる。


 彼はアイスコーヒーに目がない。


 人類が産み出した最高の芸術品は、モナ・リザかアイスコーヒーのどちらかです、と公言してはばからないほど、アイスコーヒーが好きなのだ。そのくせ、こだわりは薄く、水出しだろうがインスタントだろうが缶コーヒーだろうがお構いなしにグビグビ飲む。乱飲家なのは間違いない。


 とにかく真冬だろうが大雪だろうが外でアイスコーヒーを飲むほど好きなのだ。そんな彼にとって、目の前の景色は確かに天国であり桃源郷に違いない。


「もちろんです、黒葛川先生は天国直行便待ったなしな素敵な方ですよ! 自信をもってほしいです、うふふ」


 有紗が、応援団のような勢いで応じる。金髪のショートカットが、窓から射し込む太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。


 それにしても壮観である。


 冷蔵庫の中に入っていたアイスコーヒーの数は、かぞえてみると実に六十一本。


 しかもすべてが異なる種類だった。さまざまなメーカーが販売しているアイスコーヒーが、ブラック、微糖、ミルク、カフェオレ、エスプレッソなど揃えられている。ついでに言うと賞味期限も切れていない。


「つまり、飲めるんですね、このアイスコーヒー、六十一本は」


「もちろんですよ、黒葛川先生」


「飲めるんだあ。……わあい……!」


 砂漠の中でオアシスを発見したかのような、あるいはおもちゃ屋の玩具をすべて遊んでいいと言われた幼児のような表情をして、黒葛川はうめいた。


 だが――


「あの、黒葛川さん。瀬沼さん」


 黒葛川たちの背後で、髪の長い女性が低い声を出した。


「飲むのは構いませんが、謎解きだけはしっかりとお願いしますね。そうしないと、私、もう、不安で不安で」


 彼女の声には、どこか切実な響きがあった。


 黒葛川と有紗は「もちろんです」とふたり揃って声をあげた。


 三人がこの家にやってきたのは、アイスコーヒーを飲むためではなかった。


 六十一本ものアイスコーヒーが、なぜここにあるのか、その謎を解きに来たのである。




 なぜ、黒葛川と有紗のふたりがこの家にやってきたのかというと、そもそも彼女――一寸木千帆(ちょっき ちほ)が原因なのである。


 千帆自身は、東京で働くごく普通の会社員女性である。二十九歳。自分の苗字『一寸木(ちょっき)』が人から読まれにくく「……いっすんぎ?」と首をかしげられることが非常に多いこと以外は、本当にノーマルな女性なのだ。


 ノーマルでないのは、千帆の伯父だった。


 一寸木秀夫(ちょっき ひでお)は、六十二歳。一週間前の六月七日に亡くなった人物だが、彼の職業は写真家で、ロマンチックな作風で世間に名を馳せた人物だ。写真集も十冊以上、出版している著名人なのである。


 生涯独身だったため、相続人は姪である千帆ただ一人だった。そこで千帆は、秀夫の葬儀を済ませたあと、伯父が住んでいた東京都西部の一戸建てを片付け、相続の手続きを始めていた。


 その過程で千帆は、奇妙な遺産に直面した。


 それが、大小、ふたつの冷蔵庫だ。


 改めて述べると、大きい冷蔵庫には、未開封のコーヒーが六十一種類。


 ボトルコーヒー、缶コーヒー、業務用のアイスコーヒーまで、すべてが市販品で未開封。賞味期限も切れていない。


 いっぽう、小さいほうの冷蔵庫には――小さいといっても、冷蔵室だけで250Lサイズはあり、単身者が使うものとしてはこれでも大きいほうだ――こちらにもなんと、開封済みのボトルコーヒーが三十七本、入っている。


 飲みかけと思われるアイスコーヒーが、三十七本も冷蔵されていることそれ自体も、じつに異様な景色であった。


 そして小さい冷蔵庫のドアポケットには、謎のメモ用紙が一枚、入っていた。


『Uブ Uミ Pブ』


「暗号、ですかね……」


 黒葛川は、メモ用紙を眺めて首をひねった。


「ボールペンで書かれていますが、この筆跡は」


「間違いなく、伯父のものです」


 千帆は眉根を寄せながら言った。


「伯父がコーヒーマニアだったなんて、聞いたことがありません。それなのに、このコーヒーの量はいったいどういうことなのか……」


「ふむ……。確かに謎です」


 黒葛川でさえ、この景色には腕を組んだ。


 なお、大小の冷蔵庫、その冷凍室には、ただ氷が入っているだけである。


 やはり、異様としか言えない景色であった。


 とにもかくにも、数日前、この謎に直面した千帆は困惑し、行きつけのカフェでアルバイト中の有紗に相談した。


 有紗は、即座に、


「これは黒葛川先生に任せるしかない!」


 と、目を輝かせて黒葛川を呼び寄せたのだ。


 黒葛川は、年齢不詳、左右の目の大きさが違うという、いわゆる雌雄眼を有する男で、職業は自分史専門の代筆家である。「いわばゴーストライターです」とは本人の弁だが、その仕事をやりとげる途中で、奇妙な謎や事件を解決することも多い。


 つまり有紗からすると、黒葛川は名探偵も同然。


 彼ならばこの謎を解いてくれると、有紗は確信していたのである。


 というわけで、黒葛川たちはこの家にやってきたのだが――


「どうでしょう、黒葛川先生。この謎を解いてくれませんか? 伯父がなぜこんなにアイスコーヒーを集めたのか、私はもう、気になって気になって。もしかして伯父は、その、いわゆる認知症でも患っていたのかと思うと――」


「確かにこの謎は気になります。しかし、困りましたね。原稿の締め切りが近いんですよ。すみませんが、いまの僕にはこの謎解きに取り組んでいる余裕が……」


「でも黒葛川先生、この謎を解いたら、ここにある未開封のアイスコーヒーをすべて差し上げてもいいそうですよ。ねえ、千帆さん?」


「はい。一本残らず、差し上げます」


「では、やりましょうか!」


 黒葛川は、ぐっと一歩、前に踏み出した。その姿は、まるで戦場に向かう騎士のようだった。


「わあ、こんなやる気まんまんな黒葛川先生、初めて見た」


「よろしくお願いします、先生」


「引き受けました。ええ、確かに引き受けましたとも」


 有紗と千帆の声援を受けながら、黒葛川は大きくうなずいて、冷蔵庫を睨みつけたものである。


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