ぷしゅっ。
と――
一本目の缶コーヒーのプルタブが開いた。
「入れます」
黒葛川は、缶コーヒーの中身をグラスに注ぐ。
見慣れているはずの漆黒の液体が、なぜだか今日に限っては、神秘的な色合いに思える。まるで魔法の薬でも準備しているかのようだ。黒葛川は温かみのある雌雄眼で、グラスに注がれたアイスコーヒーに見とれている。
「いただきます」
「いただいてください」
有紗はなぜだか、相槌を打った。
黒葛川も、深刻な顔でうなずいた。
「ええ、いただきます」
黒葛川の、白桃色のくちびるがアイスコーヒーを迎えにいく。
それは例えるならば、モンサンミシェルのような西欧城郭の中で開催された晩餐会で、夕陽にも似た赤葡萄酒をたしなむがごとき仕草であった。黒葛川は悠然と、ブラックコーヒーをひとくち、ふたくちとすすると、やがて官能的な吐息をつく。
「美味い」
「美味しいですか」
「ええ、たまりませんね。この一杯を作り出すために、人類は四大文明の時代から進化を重ねてきたのでしょう」
「わ、わたしも飲みます」
「私だって」
有紗と千帆は、黒葛川の表現があまりに優美なものだから、つられて缶コーヒーに手を伸ばし、その中身をみずからのグラスに注いだ。そして彼女たちの舌はアイスコーヒーとダンスを踊った。
「ああ――」
「ええ――」
「美味しい」
「ですね」
ふたりの女性は、快楽的な美味を楽しんだ。
缶コーヒーなので、これまでに何度も飲んだ味のはずなのに、グラスに入れて口に含むと、また別格の味わいがある。
なぜかと考えると、六十一種類のコーヒーを集めるために二時間、三人は奔走したわけである。その間、なにも口にしていない。車を使って移動したとはいえ、心身ともに疲労感はある。胃袋が、喉が、というより心が、休息を求めていた。
そこへ。
恍惚。
ひとくちの、素敵な、アイスコーヒー、ブラック。
「んはあ……」
ブラックコーヒーなのに、そこはかとなく甘味を感じてしまうほどだ。有紗たちは、アイスコーヒーの一杯に、味覚のすべてを委ね、その快楽に酔いしれた。
「黒葛川先生ぇ」
「はい……」
「もしかして、一寸木秀夫さんは、この味を求めてアイスコーヒーを買いだめていたのではぁ」
有紗はなにかに酔いしれたような、舌足らずな口調で、
「一生懸命、動いて、働いて、そして家に帰って一杯のアイスコーヒーを、くいくい。その美味を楽しみたいから、アイスコーヒーを六十一本も買っていたのではぁ。きっと、きっとそうですよぉ」
「いや、それでさすがに六十一本も冷やさないでしょう」
「あれっ」
黒葛川の冷静な声音に、有紗は現実へ戻されてしまった。
「仕事のあとに飲みたいだけならば、二、三本冷やしておけば済むことです。六十一本、それもすべて種類が別ということに今回の大いなる謎があるわけですから。そして小型冷蔵庫の中にあった、飲みかけの三十七本も」
「黒葛川先生は冷静ですね。……ほんと、どうしてなんだろう……」
千帆は再び、ふたつの冷蔵庫を開けては眺め、開けては眺め、やがて、
「二杯目、カフェオレ貰っていいですか」
と言いだした。
どうぞどうぞ、むしろ我々も飲みたい、とばかりに黒葛川と有紗はブラックコーヒーを飲み終えたグラスを置いて、二本目のアイスカフェオレを開封し、それぞれのグラスに注いでからさらに飲んだ。これも美味しい。
三人はアイスカフェオレを飲みながら、冷蔵庫を見つめていたが、
「飲みかけの三十七本。こっちのほうは、種類が六十一本のほうとかぶってるんですよね」
と、有紗が言った。
その通りだった。
例えば六十一本のほうには『ブラック』『アロマブラック』『プラチナブラック』『鮮烈ブラック』などのブラックコーヒーが揃っているが、三十七本のほうには飲みかけの『ブラック』『アロマブラック』『プラチナブラック』が入っている。『鮮烈ブラック』はない。
「『鮮烈ブラック』だけ全部飲んでしまったのか、それとも最初から買っていなかったのか……」
黒葛川は首をひねる。
ひねりながらも、微糖の缶コーヒーを開け、みずからにグラスに注いでいた。三杯目である。有紗と千帆もそれに倣った。三本目の微糖缶コーヒーは、すぐにカラになった。
「そういえば、いま思い出しました。伯父の遺品整理をしていたとき、燃えないゴミの中に缶コーヒーが何本か入っていましたよ」
千帆が、ミルクコーヒーの缶を開けながら言った。四杯目。
「その中に、『鮮烈ブラック』はありましたか?」
黒葛川が、『プラチナブラック』のボトルを開けながら言った。五杯目。
「あった、ような気がするんですけれど、あまりよく覚えていません。そのときはまだ冷蔵庫も開けていなかったので」
「んん、すると黒葛川先生、六十一種類のコーヒーは本来、ツーセット、あったのでは? そしてツーセットの片方から飲んでいって、飲み干したものは捨てていった」
有紗が、『あまあまコーヒー』の缶を開けながら言った。六杯目。
「そんなところだと、僕も思いますが、しかし三十七種類が残った理由はなんでしょうか。飽きたのでしょうか」
黒葛川が、『マックスブラック』『モーニングブラック』『100%ブラック』の三缶をたてつづけに開けていく。七杯目、八杯目、九杯目。
「そこまで飲んだ時点で、伯父は亡くなったのかもしれません」
千帆が『究極の微糖』のボトルを開けながら言った。十杯目。
「でも、飲み方がおかしいんですよね。普通、缶コーヒーを飲むなら、一本飲み終わってから、次を開けるものですよね。いまのわたしたちみたいに」
有紗が『ミルクたっぷりカフェオレ』の缶を開けながら言った。十一杯目。
「あっちも少し、こっちも少し、少しずつ飲んで、そして空っぽになったら捨てる。そういう飲み方をしているように見受けられます。……なぜ、そんな飲み方をしたのか。個人の自由ではありますが、しかし……」
黒葛川が『キリマンジャロブラック』の缶を開けながら言った。十二杯目。
三人はひたすらにコーヒーをぐびぐび飲みながら、ああでもないこうでもないと議論を重ねていくが、
「もしかしたら、この数自体が伯父の謎かけかもしれませんよ。未開封が六十一、開封済みが三十七。合計で百八、すなわち煩悩の数をあらわす、みたいな」
「そういう推理でいいのなら、もしかしたら未開封の数は競馬の予言だったりしません? 次の大レースは6-1がくる、とか」
「友達と将棋をしたら、最初は六十一手で勝って、次は三十七手で勝った、みたいな話かもしれませんね、ははっ」
三人は、これぞ天から与えられた使命とばかりに飲み続けた。カフェインが頭に回り始めた。おかげで議論も、すっかりあさっての方向に向かっていくのである。
机の上には、『Uブ Uミ Pブ』と記されたメモ用紙が載りっぱなしであった。この暗号めいたメモこそが、おそらく事件の謎を解明する重大な手がかりに違いないのだが、いまの三人はコーヒーに酔いしれるしかできなかったのである。