「ついに全種類、飲み干しました。これにて完走です」
涼しい顔で、黒葛川は言った。
大型冷蔵庫に入っていたすべてのコーヒーと同じものを、黒葛川たちはついにすべて試飲しきったのである。
「……おめでとうございます……うう、胃がタプタプ……」
「……わたし、胸やけしとるっちゃけど……」
千帆は二十杯目、有紗は三十杯目でギブアップしたため、死んだ魚のような、どんよりとした眼差しで黒葛川を見つめる。有紗など、飲みすぎのあまり、故郷の方言である博多弁が出てきたほどだ。
「実に美味でした。量としてはもう少し飲み足りませんが、腹八分といいますからこのあたりでやめておきましょう」
ニコニコ顔の黒葛川。
有紗と千帆は、揃って口をあんぐりさせた。
「……さて、飲み干しはしましたが、謎解きはまるで進んでいませんね。『Uブ Uミ Pブ』のメモも意味が不明瞭のままです。こういうときは」
「こういうときは?」
「別方向から調査をしてみるべきでしょうね。僕が原稿を書くときはいつもそうしています。一寸木さん、秀夫さんの写真集を見せてもらえますか?」
「はい、こちらにあります」
キッチンの隣にある居間、その机上に写真集が積まれてある。
一寸木秀夫は風景写真を得意としていた写真家である。その中でも、朝もやに包まれたラベンダー畑や、天気雨に降られている古い城郭など、どこか浪漫が漂う、現実の中に幻想感が漂っているような写真を得意としており、また人気を有していた。
黒葛川は、何度も何度もうなずきながら「見事な写真ばかりです」とつぶやき写真集をめくり続けていたのだが、ふと彼は手を止めて、
「この写真集は、二年前に発売されたもののようですが」
「ええ、そうです。伯父の写真集の中では、遺作となりました」
「そうですか。……写真集の最後に、エッセイが書かれてありますね」
黒葛川は、鋭く目を走らせた。
『いまから四十年前の夏のこと、僕は良い写真を撮るために国内を旅していた。当時はまだ名もない学生で、写真を撮ることも、夢だか趣味だか分からないような状態だった。
そんな折である。忘れもしない一九八三年七月一日。僕は旅先の八王子で女性と出会い、恋に落ちた。笑顔が素敵な、素晴らしい女性だった。僕らはなにしろ若かった。出会って時も経たないうちに意気投合し、そして僕は旅を中断して、彼女の住んでいたアパートに転がりこみ、それから二か月、生活を共にした。
この年齢(とし)になると、二か月などは一夜の夢のごとく瞬時に過ぎ去る時間だが、本当に当時は若かった。二か月が無限のように、夢は夢でも永遠の夢のような、長い時間だと感じたものだ。
僕は彼女を相手に、旅と写真のことばかりを語り続け、彼女は自分の好きな小説のことを延々としゃべり続けていた。真夜中のアパートで、電気も点けずに自分たちの好きなものをぶつけ合った時間は、いま思うと本当にかけがえのない時間だった。
やがておしゃべりにも飽きた僕らは、そのころ駅前にあったカフェバーに向かい、酒もろくに飲めなかったふたりなので、アイスコーヒーを頼んだのだ。
あれは本当に美味しかった。四十年経ったいまでも忘れられない味だ。カラカラになった喉に沁みこんでいく、甘く、冷たい、アイスコーヒー。どうしてあんなに美味しかったのだろう。
彼女とはけっきょく二か月きっかりで、つまり八月三十一日に別れた。お互いに、自分をぶつけすぎたのだ。夏の終わりと共に、僕もまた恋の終焉を迎えたわけだ。……などと書くと、あまりに自己陶酔が過ぎる。要するにつまらないケンカをして、フラれてしまったわけだ。
僕は荷物を持ってアパートを飛び出し、八王子にはそれっきり行っていない。しかし、やはり、年齢かな。いまになって、あのときの彼女の笑顔と、夢中になって語り尽くした夜と、あのアイスコーヒーの味をよく思い出すわけだ』
「……なんだか、ロマンチック」
有紗が目を輝かせた。
「昔の彼女と、アイスコーヒーの思い出。……黒葛川先生、もしかして」
千帆は、ふと閃いたように言った。
「もしかして伯父は、そのアイスコーヒーの味を再現するために試行錯誤していたのかもしれませんよ。コーヒーにはそれほど詳しくない伯父ですから、市販品のコーヒーを買ってきて、なんとか同じ味にしてみようとブレンドしていたのかもしれません。
そして六十一種類のコーヒーは、彼女と付き合った二か月……六十一日のことで、冷蔵庫の中に未開封の六十一本を入れることで、あの味を再現するために神様に祈っていた、とか。どうでしょう、この推理!」
「さて。……美味しいアイスコーヒーを作るために、試行錯誤してブレンドしていた……というのは、分かりますが……」
黒葛川は首をひねった。
「交際期間にこだわって六十一、ですか。……しかし七月と八月にまるまる付き合っていたのならば、合計は六十二日になります。数が合いません」
「た、確かに……」
千帆が肩を落とした。
「それに、いくらロマンチックな写真家とはいえ、四十年も前の恋人との――交際期間にまでこだわって、冷蔵庫にコーヒーを入れるでしょうか? なにか、違う気がします」
「ううん……」
黒葛川の言葉に、有紗さえもしばし黙り込んだ。
誰もが、二の句を継ぐことができなかった。
六十一種類のアイスコーヒーの意味が、どうにも分からない。
一寸木秀夫自身が亡くなっている以上、この謎を解き明かすのは、もはや不可能ではないか。そんな空気が漂い始めた。複数のコーヒーを使って、美味しいアイスコーヒーを作ろうとしていた、あたりが妥当な結論ではないか。誰もがそう思い始めている雰囲気だった。
だが、そのときである。
ぴんぽーん、と。
玄関のチャイムが鳴り響いた。
その音は、静寂を切り裂く雷鳴のようだった。
「誰……?」
千帆の肩がビクリと震え、彼女は思わずグラスを握りしめる。
黒葛川は静かに立ち上がり、有紗と視線を交わした。