何者が、この家を尋ねてきたのか。
「わたし、見てきます」
有紗が軽快に玄関へ向かう。
黒葛川は千帆にそっと声をかけた。
「大丈夫ですよ、一寸木さん。どんな来訪者でも、僕たちがいますから」
千帆は小さくうなずいたが、彼女の瞳には不安が揺れていた。
伯父の遺した謎が、この家のドアの向こうに新たな影を呼び寄せたかのような空気が漂う。
玄関のドアが開く音が響き、やがて有紗の弾んだ声が聞こえてきた。
「黒葛川先生、千帆さん。沢井さんという方がいらっしゃいました。秀夫さんの古いお友達ということですが……」
キッチンに戻ってきた有紗の後ろには、穏やかな微笑みをたたえた女性が立っていた。
六十代前半に見える。白髪が交じる髪は丁寧にまとめられ、薄手の藍色のワンピースが落ち着いた雰囲気を引き立てていた。しかしその瞳には、どこか深い光を感じさせる。
「初めまして。一寸木千帆さん、ですね? わたくしは沢井優子(さわい ゆうこ)と申します。千帆さんのことは、秀夫さんから聞いていたので、知っているのです」
優子の声は、まるで古いレコードから流れるメロディのように、柔らかく、しかし確かな響きを持っていた。千帆は一瞬、言葉を失う。沢井優子――その名前には、どこか聞き覚えがあるような、ないような、奇妙な既視感があった。
「沢井……さん? あの、すみませんが、どちら様でしょうか?」
千帆の声は戸惑いに満ちている。
優子は、まるで時間を遡るようにゆっくりと話し始めた。
「秀夫さん――一寸木秀夫さんのお知り合いです。四十年ほど前の夏に、八王子で知り合った、古い友人なのですが」
その言葉は、キッチンに静かな衝撃を落とした。有紗の目がキラキラと輝き、彼女は思わず身を乗り出した。
「えっ、四十年前の。もしかして、あの写真集に書いてあった、八王子の話の……!?」
黒葛川は雌雄眼をパチリと瞬かせ、興味深そうに優子を見つめた。
「沢井さん、つまりあなたが、秀夫さんがエッセイで書いていた、あの夏の女性……」
「あら、そこまでご存じだなんて。お恥ずかしい……。ええ、そうです、秀夫さんの写真集に書かれていた女性は、わたくしのことです」
優子はどこか、懐かしさと切なさを湛えた笑みを浮かべた。
「あの夏はわたくしにとっても、まるで夢のような時間でした。秀夫さんと過ごした二か月は、まるで一冊の小説のようで……今でも、時折、胸の奥でページがめくれるんです」
黒葛川たちは、机の上にある伯父の写真集に視線を送った。あのロマンチックで、どこか哀愁を帯びた言葉たち――小説の中の登場人物が飛び出してきたような驚きを、黒葛川たちは感じていた。
「しかし」
黒葛川は、微笑を浮かべながら、
「沢井さん。どうしていま、こちらに? 一寸木秀夫さんとは昔に別れたのですよね? それが、なぜ……」
「ええ。それは……」
優子は、ゆっくりとキッチンを見回し、冷蔵庫に並ぶアイスコーヒーのボトルと缶に視線を止めた。彼女の指が、まるで過去の記憶をなぞるように、テーブルの縁をそっと撫でる。
その仕草には、まるで時間が巻き戻されるような、静かな重みがあった。キッチンに漂うコーヒーの香りが、彼女の記憶をそっと刺激しているようだった。
千帆は、優子の瞳に宿る遠い光を見つめている。有紗は、いつもの明るさを抑え、まるで物語の重要な場面に立ち会う観客のように、息を潜めて優子を見守った。
優子は、ゆっくりと口を開いた。
彼女の声は、まるで古い手紙の封を開くように、慎重で、しかし深い感情に満ちていた。
「実は……秀夫さんが亡くなったと新聞のおくやみ欄で見たので、こちらに伺いました。どうしても、最後のお別れをしたくて」
千帆は、黒葛川たちと目を合わせてから、
「沢井さんは、伯父と連絡を取り合っていたんですか? ずっと昔に別れたはずじゃ……」
「ええ、そうです。ですが、その後、再会する機会がありまして……それで、この家のことも知っていたのです」
どうやら、わけがありそうだった。
千帆は少し悩むような顔を見せてから、
「……分かりました。じゃあ、沢井さん。よろしければ、伯父の祭壇を見ていただけますか? 四十九日がまだなので、居間に遺骨と一緒に置いてあるんです」
優子の瞳が、かすかに揺れた。彼女は、まるで過去と向き合う覚悟を決めるように、深く息を吸った。
「ありがとう、千帆さん。ぜひ、お参りさせてください」
四人はキッチンを後にし、静かに居間へと移動した。
居間の片隅には、簡素だが心のこもった祭壇が設けられている。木製の台の上には、秀夫の遺影が置かれ、その周りを白い菊の花が囲んでいた。遺影の中の秀夫は、穏やかな笑みを浮かべ、まるで遠くの空を見ているようだった。そして祭壇の中央には、小さな骨壺が静かに佇んでいる。
優子は祭壇の前に立ち、両手を合わせた。
彼女の視線は、遺影の秀夫に注がれ、まるで四十年前の夏に語りかけているようだった。キッチンの喧騒から一転、居間は神聖な静けさに包まれる。黒葛川、有紗、千帆は、そっと後ろに下がり、優子の時間を見守った。
「秀夫さん……」
優子の声は、ささやくように小さかった。
彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ち、畳の上に静かに落ちた。
「あの夏の続きを、もっと話したかったな」
少女のような彼女の言葉は、祭壇にそっと響き、まるで秀夫の魂に届いているかのようだった。
やがて、優子は深く頭を下げ、祭壇から一歩下がる。
彼女は振り返り、千帆に柔らかい笑みを向けた。
「ありがとう、千帆さん。秀夫さんに、ちゃんと挨拶できたわ。これで、私も少し、前に進める気がする」
「沢井さん。来てくれてありがとうございます。伯父さんも、きっと喜んでいます」
その言葉に、優子は小さく笑い、居間を見回した。
そして彼女の視線が、居間の隣にあるキッチンへと落ちた。そこには、黒葛川たちが試飲した六十一本のアイスコーヒーの残骸が転がっている。優子は何かに気づいたように目を細めた。
「すごい数のアイスコーヒーが並んでいますね。もしかして、みなさん、あの六十一本のコーヒーのことで、頭を悩ませているんじゃない?」
その言葉に、黒葛川、有紗、千帆の三人は、まるで雷に打たれたように同時に顔を上げた。
「えっ、沢井さん、なんで分かったんですか!?」
千帆も驚きを隠せない様子で、口を開いた。
「優子さん、まさか、伯父から何か聞いてたんですか? このコーヒーの謎について」
「ええ、まあ。……そうね、順を追ってお話、しましょうか。なぜ、この家にこんなにたくさんのコーヒーが置いてあったのか。そもそもどうして、わたくしと秀夫さんが再会したのか」