優子はうなずき、冷蔵庫の前に立った。
彼女の手がまるで宝物を扱うように、冷蔵庫を開け、未開封のボトルに触れる。
キッチンはまるで実験室と化した。千帆は、U社のブラック、U社のミルク、P社のブラックを慎重に選び、綺麗に三分の一ずつ、グラスに注ぎ始める。
そして有紗が、まるで錬金術師のように、慎重にコーヒーを混ぜ合わせる。
液体がグラスの中で渦を巻き、黒い光を放った。
「できた……」
千帆が、息を呑んでつぶやいた。
「これこそ、きっと、あの夏のアイスコーヒーです。沢井さん、飲んでみてください」
「ええ」
優子はグラスを手に取り、まるで過去の自分と向き合うかのように、ゆっくりと一口、コーヒーを飲んだ。
全員の視線が、優子に注がれた。
キッチンは、まるで時間が止まったかのように静まり返る――
「……それなりに、美味しい」
優子の言葉に、有紗が思わず声を上げた。
「それなり!? え、ちょっと、沢井さん、それってどういうこと……」
優子は静かに首を振った。
彼女の瞳には、どこか寂しそうな色が映っていた。
「少しだけ、違う。すごく似ているけれど、四十年前の味は、もっと……もっと、胸に沁みるものだった」
「そんな……」
千帆は愕然として、その場にひざを突いてしまう。有紗が慌てて、彼女に駆け寄った。黒葛川は、腕を組んで暗い顔になる。
すると優子は、ニコニコと笑って手を振った。
「ごめんなさい、酷いことを言ってしまって。せっかくコーヒーを作ってくださったのに。きっとこの味が正しいと思います。間違っているのはわたくしの舌のほう。なにしろ、四十年も前の味ですから、うろ覚えになっていて……ごめんなさいね」
それが優子なりのフォローであることは明白だった。
千帆は「いえ」とかぶりを振ると、グラスを見つめながら声を震わせた。
「お気遣い、ありがとうございます。でも、沢井さんがそうおっしゃるなら、やっぱりこの味は違う味なんです。……入れる量は三分の一ずつじゃないの? それとも、伯父さんはけっきょく、優子さんの求める味に辿り着けなかったの? そうだとしたら、そんなの悲しすぎる」
「……いいえ、一寸木さん――」
そのとき、黒葛川の雌雄眼が、まるで星が瞬くように輝いた。
「思い出のアイスコーヒーに辿り着いたらしきメモまで、残しているんです。沢井さんもこのコーヒーを『すごく似ている』『すごく似ている』とおっしゃった。だから、あと一歩、もう一歩だけ踏み込めば、思い出の味に辿り着ける。そこまできていたんです。秀夫さんがそこで力尽きたとは思えない。きっと見つけていたはずなんです、思い出の味を」
「だったら、どうして――」
「最後の一歩が、レシピに書くまでもないものだったとしたら、どうでしょう。……答えはやはり、この冷蔵庫にある」
黒葛川は、ゆっくりと大型冷蔵庫の冷凍室を開ける。
そこには、ただの氷――いや、普通の氷ではない、透明で美しい氷が、静かに眠っていた。
「黒葛川先生、まさか」
「僕としたことが、コーヒーにばかり気を取られて、不覚にも気付きませんでしたよ、ははっ。店で出すアイスコーヒーといえば、氷はつきものでしょう」
黒葛川は氷を取り出しながら、語る。
「一寸木秀夫さんが通っていたカフェバーは、コーヒーにはこだわっていなかったかもしれない。しかし、バーだったんです。バーなら、氷にはこだわっていたはずです」
天然氷をグラスに落とし、再び、先ほど同様『Uブ Uミ Pブ』のブレンドコーヒーを注いだ。
氷がカランと音を立て、コーヒーの中でゆっくりと溶け始める。
「沢井さん、もう一度、飲んでみてください」
黒葛川の声は静かだが、確信に満ちていた。
優子は、まるで過去の自分に呼びかけられるように、グラスを手に取った。彼女の唇が、コーヒーに触れる。
その瞬間、彼女の目が見開かれた。
「これ。……これです。間違いありません。これは、あのときの、四十年前の味……」
優子の声は震えていた。
彼女の瞳には、四十年前の夏が、八王子のカフェバーのカウンターが、秀夫の笑顔が、鮮やかに甦っているに違いないのだ。
「秀夫さん。あなた、辿り着いていたのね」
彼女の頬を、一筋の涙が伝う。
「美味しい。こんなに美味しいアイスコーヒー、初めて」
キッチンは、まるで神聖な儀式の場のような静寂に包まれていた。