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第七話 パズル最後のイチピース

 優子はうなずき、冷蔵庫の前に立った。


 彼女の手がまるで宝物を扱うように、冷蔵庫を開け、未開封のボトルに触れる。


 キッチンはまるで実験室と化した。千帆は、U社のブラック、U社のミルク、P社のブラックを慎重に選び、綺麗に三分の一ずつ、グラスに注ぎ始める。


 そして有紗が、まるで錬金術師のように、慎重にコーヒーを混ぜ合わせる。


 液体がグラスの中で渦を巻き、黒い光を放った。


「できた……」


 千帆が、息を呑んでつぶやいた。


「これこそ、きっと、あの夏のアイスコーヒーです。沢井さん、飲んでみてください」


「ええ」


 優子はグラスを手に取り、まるで過去の自分と向き合うかのように、ゆっくりと一口、コーヒーを飲んだ。


 全員の視線が、優子に注がれた。


 キッチンは、まるで時間が止まったかのように静まり返る――


「……それなりに、美味しい」


 優子の言葉に、有紗が思わず声を上げた。


「それなり!? え、ちょっと、沢井さん、それってどういうこと……」


 優子は静かに首を振った。


 彼女の瞳には、どこか寂しそうな色が映っていた。


「少しだけ、違う。すごく似ているけれど、四十年前の味は、もっと……もっと、胸に沁みるものだった」


「そんな……」


 千帆は愕然として、その場にひざを突いてしまう。有紗が慌てて、彼女に駆け寄った。黒葛川は、腕を組んで暗い顔になる。


 すると優子は、ニコニコと笑って手を振った。


「ごめんなさい、酷いことを言ってしまって。せっかくコーヒーを作ってくださったのに。きっとこの味が正しいと思います。間違っているのはわたくしの舌のほう。なにしろ、四十年も前の味ですから、うろ覚えになっていて……ごめんなさいね」


 それが優子なりのフォローであることは明白だった。


 千帆は「いえ」とかぶりを振ると、グラスを見つめながら声を震わせた。


「お気遣い、ありがとうございます。でも、沢井さんがそうおっしゃるなら、やっぱりこの味は違う味なんです。……入れる量は三分の一ずつじゃないの? それとも、伯父さんはけっきょく、優子さんの求める味に辿り着けなかったの? そうだとしたら、そんなの悲しすぎる」


「……いいえ、一寸木さん――」


 そのとき、黒葛川の雌雄眼が、まるで星が瞬くように輝いた。


「思い出のアイスコーヒーに辿り着いたらしきメモまで、残しているんです。沢井さんもこのコーヒーを『すごく似ている』『すごく似ている』とおっしゃった。だから、あと一歩、もう一歩だけ踏み込めば、思い出の味に辿り着ける。そこまできていたんです。秀夫さんがそこで力尽きたとは思えない。きっと見つけていたはずなんです、思い出の味を」


「だったら、どうして――」


「最後の一歩が、レシピに書くまでもないものだったとしたら、どうでしょう。……答えはやはり、この冷蔵庫にある」


 黒葛川は、ゆっくりと大型冷蔵庫の冷凍室を開ける。


 そこには、ただの氷――いや、普通の氷ではない、透明で美しい氷が、静かに眠っていた。


「黒葛川先生、まさか」


「僕としたことが、コーヒーにばかり気を取られて、不覚にも気付きませんでしたよ、ははっ。店で出すアイスコーヒーといえば、氷はつきものでしょう」


 黒葛川は氷を取り出しながら、語る。


「一寸木秀夫さんが通っていたカフェバーは、コーヒーにはこだわっていなかったかもしれない。しかし、バーだったんです。バーなら、氷にはこだわっていたはずです」


 天然氷をグラスに落とし、再び、先ほど同様『Uブ Uミ Pブ』のブレンドコーヒーを注いだ。


 氷がカランと音を立て、コーヒーの中でゆっくりと溶け始める。


「沢井さん、もう一度、飲んでみてください」


 黒葛川の声は静かだが、確信に満ちていた。


 優子は、まるで過去の自分に呼びかけられるように、グラスを手に取った。彼女の唇が、コーヒーに触れる。


 その瞬間、彼女の目が見開かれた。


「これ。……これです。間違いありません。これは、あのときの、四十年前の味……」


 優子の声は震えていた。


 彼女の瞳には、四十年前の夏が、八王子のカフェバーのカウンターが、秀夫の笑顔が、鮮やかに甦っているに違いないのだ。


「秀夫さん。あなた、辿り着いていたのね」


 彼女の頬を、一筋の涙が伝う。


「美味しい。こんなに美味しいアイスコーヒー、初めて」


 キッチンは、まるで神聖な儀式の場のような静寂に包まれていた。


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