天然氷が溶け出したグラスの中で、琥珀色のアイスコーヒーが静かに揺れていた。
その光景はまるで一つの時代が終わり、新たな物語が始まる瞬間を象徴しているようだった。
優子はグラスを手に、目を閉じていた。
グラスの中の天然氷が、カランと小さく鳴り、キッチンに響く。
「伯父さん。沢井さんのために、こんなにも頑張っていたんだ」
千帆の声は震え、彼女は思わずハンカチで目元を押さえた。
すると有紗が、まるで映画のクライマックスを見届けた観客のように、目をキラキラさせながら手を叩いた。
「黒葛川先生、さすがです。天然氷に気が付いたときのひらめき、めっちゃすごかった。さすがの名探偵ですね!」
彼女の博多弁が、キッチンに明るい響きを添えた。黒葛川幸平は、雌雄眼を細め、照れくさそうに笑った。
「いやいや、僕はただ、氷を入れただけですよ。秀夫さん自身が、ちゃんと答えを残していたんです。僕らは、それを辿ったにすぎません」
彼の声は穏やかだったが、その裏には、謎を解き明かした満足感が静かに光っていた。黒葛川は、テーブルの上に置かれた『Uブ Uミ Pブ』のメモをそっと手に取り、まるで秀夫の魂に語りかけるように眺めた。
「秀夫さんはこのメモに、すべてを込めていた。U社のブラック、U社のミルク、P社のブラック。そして、天然氷。このレシピは、ただのアイスコーヒーの配合じゃない。四十年前の夏、優子さんとの時間を閉じ込めた、タイムカプセルだったんです」
その言葉に、優子が小さくうなずいた。
彼女はグラスをテーブルに置き、ゆっくりと口を開く。
「いま飲むと、特別な味ではないかもしれない。どこにでもある、平凡なアイスコーヒーを混ぜただけの味。でも、わたくしにとっては、あの夏の味。あのとき、秀夫さんと夜通し語り合って、笑って、喧嘩して、すべてをぶつけ合ったあの日の味。究極の一杯なんです」
彼女の言葉は、キッチンに静かな波紋を広げた。千帆は、伯父が最後にたどり着いたこの思い出の味に、どこか安心したような、穏やかな笑みを浮かべる。
「伯父さん、きっと満足してくれましたよね。この味に辿り着けて、優子さんが美味しいと言ってくれて……。これで、心置きなく天国に行けるかな」
有紗はまるで天国の秀夫に呼びかけるように、明るく声を上げた。
「一寸木さんなら、きっと天国でアイスコーヒーを片手に写真を撮っていますよ。また、ロマンチックな写真を」
その言葉に、キッチンに小さな笑い声が響いた。優子も、どこか懐かしそうに微笑んだ。
「そうね。秀夫さんなら、きっとそうしてる。雲の上から、カメラを構えてニコニコしてるわ」
「……さて」
黒葛川は、冷蔵庫の前に立ち、まだ大量に残っている未開封のアイスコーヒーを眺めた。
雌雄眼が、キラリと輝く。
「じつに楽しい謎解きでした。過程も結末も、そして報酬もこの上なく素晴らしい。それでは約束通りこのアイスコーヒーは、僕が責任を持って美味しくいただきます。いいですね、一寸木さん」
「ええ、もちろん、約束ですから。でも……」
「黒葛川先生、胃袋は大丈夫かなあ。それがすっごい心配や……」
千帆と有紗、ふたりの声が重なり、キッチンは一気に賑やかになった。黒葛川は、まるで騎士が誓いを立てるように、胸を張る。
「ははっ、大丈夫中の大丈夫ですよ。アイスコーヒーは僕の魂の燃料ですから。これだけのアイスコーヒーがあれば、三日は買い足しをしなくてもいいでしょう。いやあ、最高です、最高の気分です」
その言葉に、優子がくすりと笑った。
「黒葛川さんは秀夫さんみたいですね。アイスコーヒーへの愛が、なんだかそっくりだわ」
黒葛川は照れくさそうに頭をかきながら、しかしどこか誇らしげにうなずいた。
「光栄です。秀夫さんのようなロマンチストには及びませんが、アイスコーヒーへの情熱だけは、負けませんよ」
キッチンに温かな笑い声が響き合った。窓の外では六月の空が、どこまでも青く広がっている。まるで秀夫と優子のあの夏の空を、そっと映し出しているかのようだった。
キッチンのテーブルには秀夫の写真集が一冊、開かれたまま置かれている。そのページには朝もやに包まれたラベンダー畑の写真が、静かに輝いていた。まるで秀夫の魂が、そこに宿っているかのように。
(完)