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第八話 思い出の一杯

 天然氷が溶け出したグラスの中で、琥珀色のアイスコーヒーが静かに揺れていた。


 その光景はまるで一つの時代が終わり、新たな物語が始まる瞬間を象徴しているようだった。


 優子はグラスを手に、目を閉じていた。


 グラスの中の天然氷が、カランと小さく鳴り、キッチンに響く。


「伯父さん。沢井さんのために、こんなにも頑張っていたんだ」


 千帆の声は震え、彼女は思わずハンカチで目元を押さえた。


 すると有紗が、まるで映画のクライマックスを見届けた観客のように、目をキラキラさせながら手を叩いた。


「黒葛川先生、さすがです。天然氷に気が付いたときのひらめき、めっちゃすごかった。さすがの名探偵ですね!」


 彼女の博多弁が、キッチンに明るい響きを添えた。黒葛川幸平は、雌雄眼を細め、照れくさそうに笑った。


「いやいや、僕はただ、氷を入れただけですよ。秀夫さん自身が、ちゃんと答えを残していたんです。僕らは、それを辿ったにすぎません」


 彼の声は穏やかだったが、その裏には、謎を解き明かした満足感が静かに光っていた。黒葛川は、テーブルの上に置かれた『Uブ  Uミ Pブ』のメモをそっと手に取り、まるで秀夫の魂に語りかけるように眺めた。


「秀夫さんはこのメモに、すべてを込めていた。U社のブラック、U社のミルク、P社のブラック。そして、天然氷。このレシピは、ただのアイスコーヒーの配合じゃない。四十年前の夏、優子さんとの時間を閉じ込めた、タイムカプセルだったんです」


 その言葉に、優子が小さくうなずいた。


 彼女はグラスをテーブルに置き、ゆっくりと口を開く。


「いま飲むと、特別な味ではないかもしれない。どこにでもある、平凡なアイスコーヒーを混ぜただけの味。でも、わたくしにとっては、あの夏の味。あのとき、秀夫さんと夜通し語り合って、笑って、喧嘩して、すべてをぶつけ合ったあの日の味。究極の一杯なんです」


 彼女の言葉は、キッチンに静かな波紋を広げた。千帆は、伯父が最後にたどり着いたこの思い出の味に、どこか安心したような、穏やかな笑みを浮かべる。


「伯父さん、きっと満足してくれましたよね。この味に辿り着けて、優子さんが美味しいと言ってくれて……。これで、心置きなく天国に行けるかな」


 有紗はまるで天国の秀夫に呼びかけるように、明るく声を上げた。


「一寸木さんなら、きっと天国でアイスコーヒーを片手に写真を撮っていますよ。また、ロマンチックな写真を」


 その言葉に、キッチンに小さな笑い声が響いた。優子も、どこか懐かしそうに微笑んだ。


「そうね。秀夫さんなら、きっとそうしてる。雲の上から、カメラを構えてニコニコしてるわ」


「……さて」


 黒葛川は、冷蔵庫の前に立ち、まだ大量に残っている未開封のアイスコーヒーを眺めた。


 雌雄眼が、キラリと輝く。


「じつに楽しい謎解きでした。過程も結末も、そして報酬もこの上なく素晴らしい。それでは約束通りこのアイスコーヒーは、僕が責任を持って美味しくいただきます。いいですね、一寸木さん」


「ええ、もちろん、約束ですから。でも……」


「黒葛川先生、胃袋は大丈夫かなあ。それがすっごい心配や……」


 千帆と有紗、ふたりの声が重なり、キッチンは一気に賑やかになった。黒葛川は、まるで騎士が誓いを立てるように、胸を張る。


「ははっ、大丈夫中の大丈夫ですよ。アイスコーヒーは僕の魂の燃料ですから。これだけのアイスコーヒーがあれば、三日は買い足しをしなくてもいいでしょう。いやあ、最高です、最高の気分です」


 その言葉に、優子がくすりと笑った。


「黒葛川さんは秀夫さんみたいですね。アイスコーヒーへの愛が、なんだかそっくりだわ」


 黒葛川は照れくさそうに頭をかきながら、しかしどこか誇らしげにうなずいた。


「光栄です。秀夫さんのようなロマンチストには及びませんが、アイスコーヒーへの情熱だけは、負けませんよ」


 キッチンに温かな笑い声が響き合った。窓の外では六月の空が、どこまでも青く広がっている。まるで秀夫と優子のあの夏の空を、そっと映し出しているかのようだった。


 キッチンのテーブルには秀夫の写真集が一冊、開かれたまま置かれている。そのページには朝もやに包まれたラベンダー畑の写真が、静かに輝いていた。まるで秀夫の魂が、そこに宿っているかのように。


(完)


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