二〇二五年九月十七日、夕暮れが立会川の町に静かに忍び寄っていた。
東京都品川区に位置するこの小さな川沿いの町は、どこか懐かしい空気を漂わせ、都会の喧騒と田舎の静けさが奇妙に交錯する場所である。
その一角に、こぢんまりとしたカフェ『キャメル』が佇んでいた。木製の看板にはラクダのシルエットが彫られ、ガラス窓から漏れる温かな明かりが、通りを歩く人々の心をほのかに温める。店内は木の温もりに満ち、カウンターの奥にはコーヒー豆の香りが漂い、壁に飾られた小さな絵画が素朴な雰囲気を醸し出していた。
カウンターでは、店長の薬師丸萌美(やくしまる もえみ)がエスプレッソマシンの縁を指でなぞっていた。二十二歳の彼女は、ショートボブの黒髪が愛らしい顔に映え、普段は明るい笑顔で客を迎える女性だ。
しかしこの日、萌美の瞳は曇り、眉間に深い皺が刻まれていた。
手に握ったスマートフォンをじっと見つめ、唇を軽く噛んでいる。
「店長、さっきから暗い顔してるね。どうしたの?」
午後の客足が途絶え、BGMのジャズが小さく流れる中、カウンターの端でアイスコーヒーを飲むただひとりの女性客が声を出す。
瀬沼有紗(せぬま ありさ)、二十七歳。金髪のショートカットが目を引き、萌美の店によく顔を出す常連客だった。彼女の長い指がグラスを握り、氷がカランと軽い音を立てる。有紗は萌美の沈んだ表情に気づき、軽く首を傾けた。
福岡県出身の有紗の声には、博多弁の柔らかな響きが混じる。彼女はグラスを置き、カウンターに肘をついた。
萌美はハッとして顔を上げたが、すぐに視線を落とした。
彼女の手が震え、スマートフォンを握る指に力がこもる。
「有紗さん。これ、ちょっと見てくれませんか。どう思います?」
萌美が差し出したスマートフォンの画面には、一枚の写真が写っていた。
そこには若い女性と中年男性が、頬を寄せ合うようにして写っている。
「ふうん、おじさんと……可愛い女の子やね。誰、これ」
「兄の婚約者です。伊達凛音(だて りおん)さん、二十四歳」
「婚約者……って……。えっ、でもこのおじさんは……店長のお兄さん、ではないよね? 年が違いすぎるもん」
「そう……そうなんです。こっちの男の人は知りません。見たこともない。だから、凛音さんがどうしてこんなおじさんと頬ずりをしているのか、分からない……」
伊達凛音は、萌美の兄、薬師丸蓮人(やくしまる れんと)の婚約者、だったはずだ。
笑顔がチャームポイントの、明るい女性だった。凛音も何度も会ったことがある。
そんな凛音が、なぜ見知らぬ中年男性とこんな親密な写真を撮っているのか?
写真の中の凛音の笑顔は、どこか不自然で、まるで作りもののように見える。
萌美の声が震えた。
「これ、兄貴がさっき送ってきた写真なんです。兄貴の話だと、凛音さんがこの男と浮気して、行方不明になったって……。凛音さんは浮気なんてするひとじゃないと思うけれど、もし本当なら私、許せない……!」
「それでさっきから、暗い顔をしとったん。確かに許せんけど……」
そのときだった。
店の裏口から、ガタッと大きな物音がした。
萌美の心臓が跳ねる。
「なに、いまの音。ちょっと見てきます」
「なら、わたしも行く」
萌美はカウンターから飛び出し、有紗と一緒に裏口へ急いだ。
店の裏は狭い路地で、ゴミ箱と段ボールが積まれた薄暗い空間だった。夕暮れの光が弱々しく差し込み、路地の石畳に長い影を落としている。
そこに、段ボールの上に置かれた何かが目に入った。
なんだろう、と思って萌美は首を伸ばしたが、その瞬間だ。
「ひっ……!」
萌美の喉から小さな悲鳴が漏れた。
伊達凛音の生首が、無造作に置いてあったのだ。
「り、お、ん、さ、ん……?」
白目を剥き、青ざめた顔がこちらを見つめている。血の気のない唇、乱れた髪。まるで悪夢のような光景だった。路地の空気は冷たく、腐臭が微かに漂い、萌美の膝がガクガクと震える。
思わず崩れ落ちそうになった瞬間、有紗が腕を掴んでくれた。
「店長、しっかり! 大丈夫、わたしがいるよ!」
有紗の声は力強かったが、彼女自身も顔を強張らせていた。
するとそのとき、
「店長、大丈夫ですか? どうされました――」
店の奥からもう一人の女性が駆けつけてきた。
馬越文緒(うまごし ふみお)、五十歳。カフェ『キャメル』のアルバイトで、穏やかな佇まいの主婦だった。彼女は昼間のランチタイムに週三日だけ働く、頼れる存在だ。
「きゃ、こ、これは――首……?」
文緒は状況を見て、目を丸くしたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「店長! 瀬沼さん! これは……警察です。警察を呼びましょう!」
文緒は落ち着いていたが、しかし彼女の手もまた、微かに震えているのが萌美の目に入る。
萌美の頭は混乱でいっぱいだった。兄の婚約者が浮気写真を撮影したと思ったら、生首となって店の裏に現れた。……なぜ!?
カフェ『キャメル』は、萌美が一年前に開いた夢の場所だった。やっと軌道に乗り始めた矢先に、こんな悪夢のような出来事が……。彼女は涙をこらえて、スマホを取り出し警察に通報した。
やがて、パトカーのサイレン音があたりに鳴り響いてきた。