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第一話 探偵役、黒葛川幸平の登場

 二日後の朝、立会川は静かな朝を迎えていた。


 川沿いの電線がわずかにそよぐ中、町の人々はいつも通りの日常をすでに取り戻している。


 朝霧が川面に漂い、遠くでカモメの鳴き声が響いていた。


 町の空気は清々しい。


「おはようございます」


「おはようございまぁす」


 カフェ『キャメル』の向かいで『フォトスタジオ秋本』を経営する老人、秋本士郎(あきもと しろう)が、その隣で『しまうま食堂』を経営している近藤玲子(こんどう れいこ)とあいさつを交わす。


 立会川の朝は、事件など忘れたごとく牧歌的だった。


 しかし、カフェ『キャメル』の店内は重い空気に包まれていた。


 萌美はカウンターでぼんやりとコーヒー豆を挽きながら、生首の悪夢を振り払おうとしている。


(どうして凛音さんの生首がうちのカフェの裏に……? 誰が置いたの? どうして凛音さんは殺されたの? 殺された――そう、あんな死に方で事故や自殺なんてあり得ないんだから、これは殺人事件……)


 思考がぐちゃぐちゃになって、前に進まない。


 凛音の生首が発見された日、もちろん警察はすぐにやってきた。


 そして品川南警察署の音羽(おとわ)という刑事が中心となって、発見現場付近を徹底的に調べ、また防犯カメラもチェックした。


 しかし『キャメル』の裏路地は完全に防犯カメラの死角だったこともあって、犯人は影も形も見つからなかった。


 兄の蓮人には、もちろん事件発生直後から電話をかけている。だが、出ない。


 その後、萌美と警察は揃って横浜にある蓮人のアパートに向かった。だが兄の家には誰もいなかった。


(つまり、行方不明)


 さらに、伊達凛音本人は横浜でひとり暮らしをしていたが、その母親の伊達真澄(だて ますみ)もまた横浜でひとり暮らしをしている。だが、伊達真澄もまた家におらず、連絡がつかなかった。


 すなわち行方不明である。


(ひとりが亡くなって、ふたりが行方不明。……兄貴。いま、いったい、なにが起きているの……?)


 音羽刑事は「全力で捜査いたします」と約束してくれた。


 だが、犯人の逮捕まで、どれくらいの時間がかかるのだろう。事件から二日後、立会川は早くも日常の風景を取り戻している。警察官の姿さえ見えない。それがいいのか、悪いのか。……


 萌美があらためて嘆息していると、店のドアベルがチリンと鳴り、有紗が現れた。


 彼女はいつものように金髪を揺らし、軽快な足取りでカウンターに近づいてくる。


「こんにちは、店長。ねえ、わたし、考えたんやけど」


 有紗の瞳には決意の色が宿っていた。


「店長、この事件を解決するために、わたし、いい人を紹介するよ。事件を必ず解決してくれる、すごい人! 探偵じゃないけれど、名探偵みたいな人やけん」


 萌美は顔を上げ、弱々しい眼差しを有紗に向ける。


「探偵じゃないけど、名探偵? ……どんな人?」


「会ってみれば分かるよ。店長さえよかったら今日の午後にも、ここに来てもらうけど。どう?」


 有紗の博多弁が弾ける。


 彼女の笑顔に少しだけ勇気をもらった萌美は、うなずいた。


「よろしくお願いします」




 午後の光は、柔らかくカフェ『キャメル』の窓ガラスを滑り、店内の木のテーブルに淡い影を落としていた。


 カウンターの後ろで、萌美はコーヒー豆の入ったキャニスターを手に持ったまま、ぼんやりとしていた。伊達凛音の生首が裏口に置かれていた悪夢のような光景が、頭から離れない。有紗もまた、ブラックコーヒーを片手に無口を保ったままだ。


 彼女の夢だったこの小さなカフェが、まるで呪われた場所のように感じられた。


 そのときである。


 店のドアベルがチリンと鳴り、扉が開く。萌美はハッと顔を上げた。


 入ってきたのは男性だった。


 その姿は、どこか時間を超越した不思議な雰囲気をまとっている。二十歳にも四十歳にも見える不可思議な顔立ちに、左右で大きさの異なる瞳――これを雌雄眼(しゆうがん)というのだと、萌美は有紗に聞いていた――が、静かに光る。黒いシャツに緩く結ばれた黒ネクタイが、彼の独特な存在感を際立たせていた。


「ど、どうも……あのう、僕、黒葛川幸平(つづらがわ こうへい)と申しますが……」


 やたらと下手な彼の声は穏やかで、丁寧な敬語が自然に流れ出ている。


 彼は少し照れたように頭を掻き、店内を見回した。その視線が萌美に留まると、柔らかな笑みを浮かべた。


「黒葛川先生。やっと来てくれたんですね。ほら、ここ、ここ!」


 それほど大きな店内でもないのに、有紗は弾むような声で手を振った。金髪のショートカットが揺れる。黒葛川は目を細め、相好を崩した。


「やあ、瀬沼さん。夏の缶コーヒー事件以来ですね。ははっ、このお店のコーヒーも素晴らしい香りです」


 萌美は一瞬、呆気にとられた。


 この軽い雰囲気の男性が、有紗が『名探偵』と呼んだ人物なのか?


 萌美は一直線に見据えた。すると自分の視線は、黒葛川の雌雄眼に吸い寄せられる。その瞳は穏やかな表面の下に、どこか鋭い光を隠しているようだった。


 そのとき有紗が、萌美に向かって片目を閉じた。


「店長、紹介するよ! この人は黒葛川幸平先生。自分史代筆のプロをされているの」


「自分史? というと……」


 萌美は首をひねった。


「ど、どうも。ええとですね、自分史とは、つまり自伝のようなものといいますか」


 黒葛川は解説を始めた。


「自分の人生を歴史のように振り返り、それを文章にすることです。自分の歴史のことです。しかし、自分史を執筆したくても、文章を書くのが得意でない人もいるので、そこで僕が代筆するのです。つまり、ゴーストライターですね」


「そう。でも、先生はただのゴーストライターじゃないよ。自分史代筆の過程で謎が出てきたときには、バンバン事件を解決しとるんよ。そのときは警察の刑事さんからも一目置かれとるんやから」


「そ、そうなんですか」


 萌美の目は丸くなった。


 有紗が言うには本当なんだろう、と思いつつ、黒葛川幸平の容貌があまりにも細身で、どこにでもいる青年か中年のようにしか見えないものだから――それでいて、雌雄眼だけはやけに爛々と輝いているのだが――萌美はまたどこか彼を信用できない。


 黒葛川幸平は、ニコニコ笑いながらカウンターのスツールに腰かけ、


「ええと、まず、お客さんとして注文しましょうか。アイスコーヒーをお願いします」


「は、はい」


 萌美が用意したのは、水出しのアイスコーヒーだった。黒葛川は一口飲むと、満足げにうなずく。


「うん、美味しい。たまらない。瀬沼さん、やはりいい店ですね、ここは。この一口だけで僕はこのお店の虜になってしまいました。大ファンになってしまいますよ、僕は」


 黒葛川はグラスを手に持ち、目を輝かせて饒舌に言った。その仕草は、まるでカフェに遊びに来た友人のように気軽である。萌美は思わず笑ってしまい、ふと気が付いた。事件が起きてから、笑顔になれたのはこれが最初だな、と。


「黒葛川先生、相変わらずアイスコーヒーの話ばかり。それよりも事件です。事件の話ですよ、先生」


 有紗がやんわりとたしなめる。


 黒葛川幸平は頭をかいて、


「いや、どうも、すみません。そうでした。事件のことでした。……ええと、瀬沼さんから事件のことは一通り聞きました。大変でしたね」


「大変なのはこれからなんですよ。まだなにも事件は解決していないので」


 萌美は唇を噛んだ。事件のことを思い出すと、胸が締め付けられる。


「本当にこんなひどい事件、解決できるんですか? 私の兄の婚約者が、どうしてあんな、首だけになって、私のカフェの裏に現れたのか。近くの防犯カメラにはなにも、怪しい人物も写っていなかったと聞きますし。私はもう、なにがなんだか……」


 声が震え、視線が床に落ちる。


 カウンターの木目が、涙でぼやけて見えた。


 黒葛川幸平は、何秒間か、宙を眺めていたが、


「薬師丸さんへのメッセージ、でしょうね」


「……はい……? メッセージ?」


「ええ。薬師丸さんのお兄さんの婚約者さん。伊達凛音さんといいましたね。その凛音さんの首が、カフェの裏に置かれていた。これが偶然であるはずがありません。犯人は凛音さんの生首を置いて、薬師丸さんに発見してもらうことで、なんからのメッセージを送っていたのですよ」


「な、なんのメッセージですか? もうすぐ義理の姉になろうかという人の首を置いて、犯人は私になにを伝えたいんですか? そ、そんな異様なこと……おかしいですよ、そんなの」


「もちろんです。おかしいです。……殺人犯ですから当然、おかしいのですが……。ただこの犯人は、おかしいだけではなく、犯人なりの理屈でこういう犯行をやりとげて、薬師丸さんになにかを伝えようとしているんでしょう。それだけは分かります。……それも、例えば脅しだとかそういうものではなく、もっと複雑なメッセージを送ろうとしている……」


「つ、黒葛川さん。この事件の謎が解けるなら、解いてください」


 萌美は、すがるように叫んだ。


「私は怖いです。凛音さんをこんな風にした犯人がどこかに潜んでいると思うと。兄の行方も心配です。見つけだしてあげたい。それに、それに、やっぱり憎いです。凛音さんをあんな風にした犯人が。そして気にもなります。凛音さんと一緒に写真に写っていた男性の正体や、あの浮気みたいな写真はなんだったのか。あれがどうして私のスマホに送られてきたのか。謎ばかりの事件を、なんとかしてほしいです。黒葛川さん」


 一気呵成に喋りまくる。


 すると黒葛川はグラスを置き、柔らかく微笑んだ。


「薬師丸さん、僕の本業は自分史の代筆です。推理はその過程で行う余技に過ぎません。……ですから、薬師丸萌美さんの自分史を代筆してほしい、そのために事件の捜査をしてほしい、という話ならば、この依頼、お引き受けしますが」


「自分史の代筆……」


 萌美は戸惑いながらも、黒葛川幸平の穏やかな瞳を見つめた。


 黒葛川幸平の声には、なぜか人を安心させる力が宿っている。彼女は深呼吸し、意を決した。


「黒葛川さん、分かりました。お願いです、私の自分史を代筆してください。そして、この事件、解決してください!」


 彼女の手がカウンターを握りしめ、声に熱がこもる。


 黒葛川は静かにうなずいた。


「分かりました、薬師丸さん。あなたの自分史、しっかり代筆します。そして、この事件、必ず解決してみせますよ。契約成立です」


 彼はグラスを掲げ、まるで乾杯するように笑った。有紗が「やった!」と手を叩き、萌美も思わず小さな笑みをこぼした。黒葛川の軽やかな口調と、どこか人を引き込む雰囲気に、彼女の心はほんの少しだけ軽くなった。


「さて、では早速。薬師丸さん、まずはお兄さんのことから話していただけますか? 蓮人さん、ですよね? 彼の普段の様子や、最近の連絡について、なんでもいいので教えてください」


 黒葛川はポケットから小さなノートを取り出し、ペンを手に持った。その姿勢は、まるで物語の第一ページを開く作家のようだった。


 萌美はうなずき、カウンターの向こうで深く息を吐いた。立会川の川面に映る夕陽が、窓越しに彼女の顔を照らしていた。


 事件の闇はまだ深いが、黒葛川幸平という男が、その闇に一筋の光を投じるかもしれない――そんな予感が、萌美の胸に芽生えていた。


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