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第二話 消えた兄の行方

 黒葛川幸平が『キャメル』に登場した翌日である。


 その日の立会川は、昼なのに、どこか夢の中のような静けさに包まれていた。


「店長、お疲れ様です」


 午前十時ごろ、カフェ『キャメル』に現れたのは馬越文緒であった。五十歳の彼女は、いつものように大きめのトートバッグを片手に出勤してきて、白いエプロンを丁寧に結ぶとカウンターに近づいてきた。


 馬越文緒は、週に三日だけ『キャメル』のランチタイムで働いてくれる主婦だが、その落ち着いた佇まいは、まるでカフェの守護者のようだった。彼女は萌美の顔を見て、優しく声をかけた。


「昨晩、お電話をいただきましたけれど、今日は横浜にあるお兄さんの家に向かわれるんですよね?」


「ええ、そうです。だから『キャメル』を文緒さんに任せていくことになります。すみません」


「いいんですよ。店長のお兄さんも行方不明ですからね。無事でいてくれるといいんですけれど」


 文緒の柔らかな声音に、萌美は胸が温まるのを感じた。彼女の声には、母親のような包容力がある。


「ありがとう、文緒さん。いつもお世話になってます。……それじゃ、私、行ってきます」


『キャメル』を出ると、有紗、そして黒葛川幸平がすでに外で待っていた。


 文緒に言った通り、今日、萌美たち三人は、横浜にある兄のアパートに再び出向くことにしたのだ。




 昨日、萌美は黒葛川幸平から「まずはお兄さんのことから話していただけますか」と聞かれたので、答えた。


「兄貴ですか。……薬師丸蓮人(やくしまる れんと)、二十三歳。私より一学年上ですね。十代のころは、なんていうか、だらしない人でしたね。勉強はしないし、夜遊びはするし、変な友達を家に連れてくるし――


 やんちゃ? すみませんが、嫌いな表現ですね、それ。そんな可愛いものじゃなかったですよ。父親が家にいないときは平気で煙草をふかしていましたし。古風だけど、不良って表現がぴったりだったと思います――


 でも、まあ、高校を出てしばらくして、配達の仕事に就いて、凛音さんと出会ったんですよ。そこからですね、兄貴が少しばかり真面目になったのは。凛音さんのおかげだと、私、思っていたんですけれどね……。


 ……そんな兄貴です。昔はずいぶんひどかった。でも私にとってはやっぱり、嫌いになりきれない、大事な兄貴なので……無事でいてほしいと思っています」


 こうして、蓮人のことを萌美から聞いた黒葛川幸平は、次は蓮人の家を調べてみたいと言ったので、翌日にみんなで行こうということになったのである。


 残暑の厳しい、九月二十日の昼下がりであった。


 萌美、黒葛川幸平、有紗の三人は、立会川駅から電車に揺られ、横浜へと向かった。


 車窓を流れる景色は、立会川の穏やかな町並みから、徐々に都会の喧騒へと変わっていく。


「伊達凛音さんのお母さん――伊達真澄さんが、行方不明という話も気になりますが」


 と、電車の中で黒葛川幸平は言った。


「そちらは警察がまず調べているでしょう。僕はお兄さん――蓮人さんのほうをもう一度調べてみます。警察が一度調べているようですが、次は僕自身の目で見てみたい」


「よろしくお願いします」


 萌美としては、正直、わらをも掴む心持ちだった。誰でもいいから、とにかく事件を早急に解決してほしい。……


 三人は横浜に着いた。


 高層ビルが空を切り裂き、みなとみらいの輝くガラス張りの建物が遠くに見える。


 しかし、蓮人のアパートがあるエリアは、横浜の外れにある。


 高速道路を北に臨む下町然とした場所で、横浜中華街から歩くと三十分はかかるという場所だった。黒葛川幸平の提案で、萌美たちはタクシーを使って十分ほどでその場に到着したが。


 不思議と、あまり人気のない一角だった。


 蓮人の部屋があるアパートは、色褪せたコンクリートの建物で、階段の手すりには錆が浮かんでいる。路地の奥からは、カラオケバーのネオンと、スナックから漏れる演歌のメロディが混ざり合い、湿った空気が漂っていた。


「結婚したら、もう少しいいところに引っ越すんだ、と兄貴は言っていたんですけれどね」


 萌美は苦笑しながら、アパートの前に立ち、そして兄の部屋のドアを見つめた。


 蓮人の部屋は二階の角にあり、表札にはなにも書かれていない。


 萌美はチャイムを鳴らし、ノックしたが、応答はない。


「やっぱり留守のままですね」


 萌美の声は小さく、風に消えそうだった。


 黒葛川は、缶のアイスコーヒーを手に、階段の踊り場で周囲を見回していた。彼の雌雄眼が、路地の薄暗い角を鋭く捉える。


「ふむ。近所の方への聞き込みや防犯カメラのチェックは、もう警察がしていると思いますが……」


「こういうところ、そんなにご近所付き合いってありますかね? ……蓮人さぁん、本当にいませんかあ!」


 有紗がそう言いながらドアをトントンと叩き、叫んだ。


「蓮人さん! 蓮人さんってば。妹さんが心配していますよ!」


 だが、返事はなかった。


 それどころか、


「うるせえなあ! うぜえよ、ドンドンドンドン、隣のことも考えろ!」


 隣の部屋のドアが開き、男が現れたのだ。


 年齢は三十代前半だろうか。無精ひげの生えた顔に、眠そうな目。Tシャツとジーンズのラフな格好で、萌美たちのことを訝しげに見つめてくる。


「蓮人がどうしたって? あいつ、どっかに行ったよ。もう何日も前にな!」


 男がそう言うと、黒葛川幸平は眼差しをいっそう鋭くさせて、


「薬師丸蓮人さんのことを、ご存じなのですか?」


 と、問いただす。


 男は、面倒そうに、


「ああ、知ってるよ。隣だもんな。でも、だからなんだよ。あんたたちは何者なんだ」


 知っている?


 兄のことを?


 萌美は、手がかりをつかめたような気持ちになって、思わず瞳を光らせた。


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