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第三話 横浜路地裏探検

「私は薬師丸萌美といって、蓮人の妹になります」


「妹。へえ、あいつにこんなに可愛い妹がいたんだ、そりゃ知らなかったな」


 男に対して萌美が名乗りを上げると、相手は急に見下したかのようにヘラヘラ笑い出した。かと思うと、上から下まで、品定めでもするかのように萌美のことを眺めだす。萌美は彼の視線に不快感を覚え、眉をひそめた。


 しかし、ここで怒ってはどうにもならないと思い、萌美は内心の不愉快をこらえながら話を続ける。


「兄と連絡が取れないので、いま、探しているのです。実はおとといにも、このアパートに来たんですけれど、そのときも会うことができなくて」


「へえ、行方不明なの? そうなんだ。そういえばしばらく留守みたいだぜ。人の気配がしないもん。何日か前の夜中にゴソゴソ音がしてた気がするけれど、そっから見かけてねえな」


「夜中にゴソゴソ……?」


 やはり、蓮人の身にもなにかあったのか。


 萌美の心臓が締め付けられた。


「なにか変なことがあったか、気づきませんでしたか?」


 彼女の声には、切実な願いが込められていた。


 だが森沢は肩をすくめ、煙草をくわえた。


「いや、別に。ほら、蓮人って綺麗な彼女いたじゃん。だから夜でも、音を出してんじゃねえのって思って、ははは」


 露骨な言い方に、今度こそ萌美は顔をしかめた。もうこの男とは口を利きたくない。話しぶりからすると、その綺麗な彼女こと伊達凛音が殺されたことも知らないようだ。となるとこの男は大した情報も持っていないようだから、ここで別れたい。隣を見ると有紗も、顔つきこそ涼しいがどこか冷めた目を男に向け始めている。


「いや、どうも、貴重な情報をどうも、ありがたい限りなのですが」


 そこで黒葛川幸平がふいに声をあげた。


 男は、黒葛川幸平をうさんくさげに一瞥して、あいさつもしない。


 だが、


「その綺麗な彼女さん。伊達凛音さんというのですが、つい三日前、東京の立会川で生首として発見されたことはご存じでしょうか」


「え……」


 男は、煙草をぽとりと落とした。


「マジか、それ」


「ええ。テレビもネットも、日本中がいまその話題で持ち切りですよ。あまり、ネットも見ないほうですか?」


「動画とかゲームはよく見たりしたりするけど、ニュースとかは全然見ねえから。……え、それマジで。マジか。本当にマジかよ。マジの話なのか」


 どれだけマジと言えば気が済むのか。


 萌美はもう、この男にどこかへ行ってほしくて仕方がなかった。だらしがない人間は大嫌いなのだ。


 だが黒葛川幸平はニコニコと笑って、


「本当の本当なんです。伊達凛音さんは殺害――おそらく殺害されてしまったわけで――だから我々もこうしてこのアパートにやってきましたし、おととい、こちらの妹さんがやってきたときも警察の方を伴っていたのですが」


「いや、おとといはずっと、外にいたから……。そうだったのか。蓮人の彼女が……。それで蓮人が行方不明なのか? まさか蓮人が犯人だと疑ってるんじゃないだろうな? それはないぜ。あいつはだって、けっこういいやつで――」


「落ち着いてください。こちらの方は蓮人さんの妹さんなんです。犯人として疑うはずがないでしょう」


「そ、そうだな、悪い。……いや、でも。……そうか……」


 男は完全にショックを受けたらしい。


 先ほどまでの、いやらしい雰囲気はもう微塵もまとっていなかった。


 そのとき、有紗が声をあげた。


「あの、お隣さん」


「森沢だよ。森沢 昭平(もりさわ しょうへい)」


「どうもありがとうございます。わたしは瀬沼といいます。……森沢さんは、蓮人さんとは親しかったんですか?」


「ん……まあまあ、かな。蓮人とは隣同士の縁で、ときどき飲みにいったりもしていたんだけどな」


(初耳。兄貴、お隣さんと飲みにいったりしていたんだ)


「もっとも、近ごろはご無沙汰だったよ。蓮人のやつ、路地裏にある『しまこ』っていう古いスナックになぜかハマっちゃってさ。最初は確か、このアパートの部屋のポストに『しまこ』の九割引きクーポンが入っていたから、そんなに安いならふたりで行こうかってことになったんだ。


 でも実際に行ってみたら、その店、別に料理がうまくもないしサービスもよくないし、ママは蓮人にばかり構ってさ、好きじゃなかったんだ。だけどあいつはなぜか好きだったから、よく通うようになって……。それであんまりつるまなくなっていったんだよな。……ま、そこのママが本当に、どういうわけか蓮人をやたら気に入っていたから、蓮人も嬉しかったんだろうけれど」


(スナックのママ?)


 これも萌美には初耳の情報だった。


 兄貴め、婚約者がいる身でありながら、なんてお店に通ってるの。


(それもスナック? 何歳のママなんだろう? でも、これも貴重な情報だよね)


 萌美はひそかに、黒葛川幸平を感嘆の眼差しで見つめていた。


 この場所にやってきたのが自分だけだったなら、この情報は手に入らなかった。恐らく森沢のことは無視して兄の部屋に入るなり、帰るなりしていたはずだ。黒葛川幸平の話術による調査の力を、萌美は認めざるをえない。


 黒葛川幸平は、さらに話を続ける。


「スナック『しまこ』、ですか。ふむ、なるほど。そこのママさんは、どういう方ですか?」


「どうって……」


 森沢は、ちょっと首をひねって、


「細くて、痩せてて、背が高くて、パッと見た感じだとそのへんの主婦みたいだった。でも目がなんか、妙に陰湿で、俺は苦手だったな」


「ふむ。他には……」


「あとは……年齢は四十五歳って言っていたけれど、ありゃサバ読みだな。五十は超えてると思う。まあああいうところには、よくあることだけどな。蓮人のことをとにかく気に入ってて、なにかにつけてサービスであれを飲ませてこれを飲ませて、って感じだったな。逆に俺のことはほとんど放置。目も合わせてくれなかった。若い男のほうがいいってことかもしれないけれど、俺は面白くなかったね。問題も起こしてないのに、客によって態度を変えるなんて、客商売失格だよ。そう思わないかい、あんたも」


「ははっ、いや、まったく、おっしゃる通りです。……しかしこうして聞いていると、あくまでもどこにでもいるママ、という感じですね。蓮人さんに優しいこと以外は」


「ま、そういうことだね。ごくたまに、流しの客も来ていたみたいだったけれど……店の中は汚いし、ママは愛想がねえし、ほとんど居つかずに帰っちゃったみたいだ。ごくたまに、残るおっさんもいたそうだけどね。よほど他に居所がないのか……」


 森沢は、もう話すことはないぞとばかりに大きく伸びをしてから、その後、落とした煙草を潰して火を消し、拾いあげて、


「蓮人はどこに行ったんだろうな。婚約してる彼女がそんなことになったのに、いつまでも出てこないやつじゃないと思うけれど。……いや、まあ、なにか事情があるんだろうけどな……」


 後半の言葉は、慌てて付け足した、という感じだった。


 言葉の前半だけを聞くと、蓮人も殺されているんじゃないか、と言っているようなものだということに気が付いたのだろう。妹の萌美がいる前で、蓮人の死を断定するのはまずいと思ったに違いない。


(思っていたよりは真面目な人みたい。……思っていたよりは、だけど)


 萌美はひそかにそう思った。


 とはいえ、基本的にはだらしない感じの人だ、という印象は消えなかったが。


 萌美はきちんとしていない人が嫌いだった。あんな男性と友人だったらしい兄も、なにを考えていたのか。


「悪い。俺はそろそろ仕事に行く準備があるから。……これから蓮人の部屋に入るの?」


「ええ。中を調べてみたいですから」


「けっこう散らかってるみたいだぜ。俺も入ったことはないけどね」


「兄貴の家に遊びに行くことは、なかったんですか?」


「ないない」


 萌美の質問に、森沢は手を振った。


「どうして男の部屋に遊びに行かなきゃいかんのよ。俺、そんな趣味ないよ」


 それは差別的な発言じゃないのかな、と萌美は内心腹を立てた。やっぱり自分は、この男が苦手だ。


「まあ、とにかく頑張ってくれ。俺は家にいないことも多いけれど、できることなら協力するよ」


「ありがとうございます。よろしければ連絡先を交換していただけますか。尋ねたいことも出てくるかもしれませんので」


「ああ、いいよ。ラインでいいかい」


 森沢はそう言って黒葛川幸平とラインを交換し、「じゃあな」と部屋に戻ろうとした。


「お手数をおかけしました。ご協力に感謝します」


 黒葛川幸平がそう言うと、森沢は軽く手を挙げて、そして中に入っていく。


「どんなお仕事をしよるんやろう」


 有紗がさらっと言う。


 黒葛川幸平は涼しい顔で、


「まあ、いろんな方がいますから。それよりも……お兄さんの部屋をちょっと拝見したいですね。鍵は開けられますか?」


「開けられます。兄から、合い鍵を貰っていたので」


 萌美は合い鍵を使ってドアを開けた。


 そして行方不明の兄、蓮人の家の中へと入る――


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