薬師丸蓮人のアパートのドアが、合い鍵によって静かに開かれた。
萌美の指先は冷たく、鍵を握る手にわずかな震えが走る。
ドアの向こうには、兄の生活の痕跡が詰まった空間が広がっていた。黒葛川幸平と有紗がその後ろに立ち、静かに部屋を見渡す。外の横浜の路地裏からは、遠くで車のクラクションと演歌のメロディが混ざり合い、湿った空気が漂ってきていた。
部屋の中は、とにかく散らかっていた。
床には脱ぎ捨てられたシャツやジーンズが無造作に転がり、テーブルの上にはノートやボールペンが積み重なっている。窓際には埃をかぶった観葉植物が傾き、陽光がカーテンの隙間から差し込んで、部屋に薄い光の筋を描いていた。
「相変わらず、汚いなあ……」
萌美は小さくつぶやき、眉をひそめた。
ジーンズをつまんで持ち上げる。少し小さめのジーンズが、汗のような臭いを醸し出していた。洗濯をしていないのは明らかだが、そもそも蓮人は自分の体にぴったり貼りつくような、すなわち本来の身体よりもワンサイズ小さめの服を好んだ。そのせいで、ジーンズはより汗や体臭を吸収してしまったのだろう。
「黒葛川さんたちが来ると分かっていたら、もっと整理していたんですけど」
萌美は、持っていたジーンズをその場にまた置いた。
「いえいえ、お兄さんが住んでいたままの部屋のほうがいいのです。男の一人暮らしはこんなものですよ」
「……黒葛川先生も、ですか?」
有紗が小声で尋ねたが、黒葛川幸平は「ははっ」と軽く笑うだけで、その会話を続けようとはせず、
「とりあえず、なにか手がかりになるものがないか、探してみましょう。薬師丸さん、調べて構いませんか?」
黒葛川が萌美に視線を向け、柔らかく尋ねた。彼の手にはすでに小さなノートが握られ、いつでもメモを取る準備ができている。
「もちろんです。机の中でもどこでも、兄貴のことなら自由に調べてください」
萌美はそう言って、部屋の奥にある古びた木製のデスクに近づいた。
デスクの上には、使い古されたノートパソコンと、コーヒーの染みがついたマグカップが無造作に置かれている。引き出しは三段あり、どれも少し開けにくいほど物で詰まっていた。
萌美は一つ目の引き出しを開けた。中にはボールペンや付箋、領収書の束が雑多に入っている。コンビニのレシートやガソリンスタンドの領収書が目立つが、特に目ぼしいものは見当たらない。
次の引き出しには、使いかけのタバコの箱やライター、そしてなぜか古い携帯電話の充電コードが絡まっていた。
「んんっ、このへんは、なんにもなさそうやね」
有紗が肩越しに覗き込み、つまらなそうにつぶやく。
「薬師丸さん。クローゼットの中も、覗いて大丈夫ですか?」
「はい、黒葛川さんが気になるところはすべてチェックしてください」
「ありがとうございます。それでは」
そう言って黒葛川幸平がクローゼットを開くと、服やベルトなどの他に、大きめの段ボール箱がひとつ入っていた。
「薬師丸さん、この段ボールは?」
「それは私も、中を見たことがありません。見てみましょう」
萌美は黒葛川幸平と共に、段ボール箱を開く。
すると奥から、厚い封筒の束が丁寧にゴムバンドでまとめられているものが出てきた。
その瞬間、萌美の目が大きく見開かれた。
「これは――兄貴、こんなもの、まだ持ってたの……?」
「こんなもの? 店長、これはなんなの?」
有紗が首をかしげる。
だが萌美は、無言のまま封筒の束を見つめた。
封筒はどれも古びており、角が擦り切れているものもある。萌美は震える手でその束を取り出し、ゴムバンドを外した。
中から出てきたのは、数十通もの手紙である。
封筒の表には、丁寧な筆跡であて名が記載されていた。
鈴原次郎様、藤本敦様、久保田俊哉様、井上健司様、などなど――
数十通ある手紙は、どれもあて名が異なっていた。
しかし、差出人は、すべて同じである。
『沼賀早百合』
「ぬまが、さゆり。で、いいんかな?」
「はい、それで合っています。……沼賀早百合は、私と兄の母親です」
「えっ……店長のお母さん?」
有紗の声が震える。
黒葛川がそっと近づき、萌美の手元を覗き込んだ。
「するとこれはお母様の手紙ですか。ずいぶん大切に保管されていたようですね」
彼の声は穏やかだが、どこか探るような響きがある。ええまあ、と萌美は目をそらしながら答えた。
沼賀早百合の――実母の残したこの手紙は、萌美にとっては他人にあまり見られたくない一種の黒歴史だ。それは兄にとっても同じはずだ。とっくに捨てたと思っていたのに、まだ取っておいたなんて!
「中身を見てもいいですか?」
黒葛川幸平は萌美に視線を向け、確認するように尋ねた。
萌美は迷ったが、これがあるいは、伊達凛音の生首事件、そして兄の失踪になにか関係があるかもと思い、決断した。萌美はうなずいて、
「どうぞ」
と、言った。
黒葛川幸平は静かにうなずく。
そして深呼吸し、最初の封筒を開けた。
「糊付けはされていないのですね。……いえ、これは、一度は糊付けされて、開封されている封筒ですか」
「そうです。全部、そうなっています。……」
萌美は目をそらしながら回答した。
沼賀早百合の手紙は、細い万年筆で書かれた、流れるような文字で埋められていた。
紙は少し黄ばんでいるが、文字はまだ鮮明だ。黒葛川幸平は最初の数行を読み上げた。
「『あなたのことを愛しています。誰よりも、誰よりも。だから、私をもっと愛してください』……これは……ラブレター、ですか」
「ええ。……まあ……」
「……続けて読みます。
『父も母も、兄と姉ばかりを見て、出来の悪い私など、石ころのように……』
『こんな私を愛してくれるのは、あなたしかいないのです』
『愛しています。あなたになら、なにをされても構わない。私と一緒に上京して、共に暮らしていきましょう』
『私と未来を共有できるのはあなたしかいません。私は、こんなに恋をした相手はあなたが初めて……』
……これはまた、ずいぶんと情熱的な手紙ですね」
「……そうですね」
黒葛川幸平が一通、また一通と手紙を読むたびに、萌美の指は震えた。有紗は無言を保っている。誰もがこのラブレターの異様さに気が付いていた。
なぜならば、その数は五十通を超えているすべてのラブレター、そのあて先がいずれも異なっているのだから。しかもどの封筒も、切手が貼られ消印まで押されている。つまりこの手紙は、書いたけれど出さなかった、という類のものではなく、すべて間違いなく、郵便として発送され、相手の男性に届いたものなのだ。
何十通ものラブレターを書いた母親! しかも、封筒の消印を見る限りでは、ある男性に『あなたしかいない』という手紙を送ったわずか三日後には、また別の男性に『奥さんと別れて。わたしと結婚して』などという手紙を送っているのだ。
(恥知らずな母親!)
萌美は恥ずかしくてたまらなかった。こういう手紙は、一通や二通ならば母の思い出のひとつとして美しくもあるだろう。だが、これだけの手紙を複数の男性に向けて出すなんて! それは萌美の性格、倫理観からすると耐えられない話なのだ。汚い! きたない! 母はなにを考えていたの、と叫びたくなる!!
「母は、よく分からないひとですから」
萌美は絞り出すように、うめいた。
有紗が無言のまま、片眉を上げる。
黒葛川幸平は、封筒を眺めたまま、
「確かにこれだけのラブレターを、これだけの人数に出すのは、失礼ながら少々驚きました。ただ僕が気になるのはそれだけではなくて、そもそもどうして、お母さんの出したラブレターがこれほどたくさん、お兄さんの家にあるのか、ということです。
母が出したラブレターを大量に保管する息子。……それも、ラブレターならば、普通は受け取った相手が持っているはず。それなのに、なぜここに残っているんでしょうか?」
彼の声は穏やかだが、瞳には鋭い光が宿っていた。
萌美は深く息を吐き、窓の外、横浜の薄暗い路地に視線を送りながら言った。
「事情があるんです」