いまこの人は何と言った。
「未来の花嫁候補様」と言っただろうか?
花嫁……?
目の前に立つ男性は身なりからして決して身分は低くない人物だ。いま白いカナリアがこの男性の腕に止まっていることで私の頭の中には、ある仮説が思い浮かぶ。
先ほど、アークブレッド帝国の第一皇女・エリサは言っていた。
『私の家族以外に全然懐かないサーシャ』
私の腕にサーシャが止まったことにエリサ王女は感心していた。ということは、家族以外に懐くことはほぼないのだろう。
しかし、いまサーシャはこの男性に懐いているように見える。つまり、エリサ王女の家族である、ということは、
「リエル王子……でしょうか」
私がその名を呼ぶと、
「いかにも」
と表情を変えることもなく、リエル王子は言った。
「失礼致しました。ご挨拶もできておらず。かつてお会いしたのはもう10年以上も前のことになりますが、お久しぶりです。サラ=エルリーアでございます」
私は王子に一礼をした。
「別に構わない。貴国も憂き目にあったと聞いている。オレがもう少し国に戻るのが早ければ援軍に行けたかもしれぬが」
リエル王子は、アークブレッド帝国の第一皇子にして皇位継承者第一位の存在だ。軍を率いて最前線に立つことでも知られ、「鬼」「稲妻」「魔神」という異名もあるほどだ。
「いえ……お気遣い、ありがとうございます」
「頭を下げ続ける必要はない。表を上げよ」
そう言われて私は頭を上げる。心まで凍り付かされそうな目が私を見ている。この方が言った「花嫁候補」の意味を私は理解しあぐねていた。
これは考えてみても答えの出ないことだろう。
「先ほど、聞き間違いではなければ、先ほど王子は私のことを、その……『花嫁候補』と仰ったでしょうか? もし聞き間違いであれば申し訳ないのですが」
「聞き間違いではない」
リエル王子はカナリアに目を移す。
「エルリーアの王女よ。この国はたしかに
「……ありがとうございます」
「それは、貴国とアークブレッドが同盟を結んでいるからというだけではない」
「と申されますと?」
「わからぬほど無知な姫でもあるまい。我々にとってエルリーアは支配価値のある国なのだ。ただし、武力でただ制圧してみても、世界の批判は消えぬ。では、どうすればよいか? と王である父は考えた。エルリーアと同盟を結び、ゆくゆくは血縁関係を結び、事実上、支配するためだ。そのため、其方はオレの花嫁候補として扱われている」
すらすらと話すリエル王子に私は何も言えなかった。
私のような小国の王女を保護する利点はそこだったのか。
この後、エルリーアに攻め入って奪い返したときに、堂々とアークブレッドの支配下に置くならば、生き残っている王女、つまりは私を
「私の価値は、エルリーアを手に入れるためにあると?」
「正確に言えば、領土そのものというよりは其方も当然知っているであろう『エルリーアの秘宝』にこそ価値がある」
心臓が止まるかと思った。
また、ここにきて『エルリーアの秘宝』の名前が出てくるとは。私を付きまとう悪しき名だが、私を救った名でもあるのか。
「でなくば、国を失った姫君などに価値はない。其方が持つ価値とは『エルリーアの秘宝』を知るということだけだ」
取り乱すな。焦りを顔に出すな。
この人が言っていることは正論だ。私個人になど価値はないのだ。滅んだ国の王女など――
「それでも……いまは行き場のない私を受け入れていただいたことには感謝しかありません」
「健気なことだな」
王子が私に一歩近づく。少しずつ距離が近くなる。凍てつく空気まで一緒に近づいてくるようだった。
「高い身分で何の不自由もなく暮らしてきた姫が、国が滅べば同盟国に保護してもらい、安定した生活を手に入れる……。いい気なものだな」
サーシャが王子の腕から飛び立つ。まるで私を見捨てたかのように。
リエル王子が私の顎に手をかける。冷たい体温が伝わる。
「秘宝があるからこそ生かされる……。オレは別に秘宝など欲しくもない」
「え」
「事故に見せかけて消えてもらうのも一興か」
どこから現れたのか、リエル王子の後ろに数人、いや三人の黒い服を着た男たちが立っていた。
「よかったな、これでオレなどと結婚せずに済む」
リエル王子が私の左肩を押した。私は不意を突かれたため立っていられず背中から倒れる。黒い服を着た男たちが近づいてくる。
怖い。
しかし、歯が震えるだけで声が出ない。
そのときだった。
一瞬の風が吹いた。
いや、風ではなかった。
影だ。
私の前に現れた影が、黒い服の男たちを弾き飛ばした。三人の男が倒れた。
誰も守ってくれる人などいないこの国で、唯一私を守ってくれるとするならば、この人しない。銀色の髪を持つこの人だけだ。
「リアム!」
私が名を呼んだその人は私に振り返ることはなかった。
「ご無事ですか? 王女」
リアムは振り返ることないまま私に尋ねる。「大丈夫、怪我はしていない」と私は返した。
いまこの国で唯一、私が頼れるのはこの人だけだ。