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12 生まれて初めての愛称

 スキュルダという女使用人に先導されて二人が通された部屋は屋敷の裏手にあるこぢんまりとした離れだった。

 それでも、暗い雰囲気の場所ではなく、目の前には庭が広がっており、硝子張りの窓の向こうにテラスのある見晴らしの良い造りだった。


「お部屋は二つございます。ノクティア様のクローゼットはこちらに。ソルヴィ様のクローゼットはあちらに……」


 淡々と部屋の説明をするとスキュルダは出て行った。足音が段々と遠ざかっていく。それを見計らい、ノクティアは口を大きく開く。


「ソルヴィ! どういう事なの!」


「どうって……婚姻に関してはどうにもできない。俺の力だけじゃ無理だって初めから言っただろ?」


「そうじゃない! エリセが結婚したいってわざわざ言っていたのに、どうして断ったの! あんた馬鹿なの!」


 ノクティアは真っ赤になって怒り散らす。しかし、彼は頬を掻いて目を細める。


「単純に好みじゃない。あのテの性格が苦手だ……はっきり言って、どう考えても妻にするならノクティアの方がいい」


 ノクティアはその言葉に目を瞠る。だが、すぐにこめかみを揉んで目を細めた。


「馬鹿言わないで。結婚なんて……考えられない。私は誰も好きになれないし、愛さないって決めているの」


 ──好みだの云々言わないで、今すぐでもエリセに謝って婚約を申し込めば良い。ノクティアはぽつりとそんな言葉を言うと、彼は神妙な面で首を傾げる。


「ノッティ、それは魔女の掟か? 何か制約でもあるのか?」


「そうじゃない。ただ惨めだから嫌なの」


 答えてからハッっとした。ノクティアはすぐさまソルヴィを見上げて睨み据える。


「だからあんた! そのノッティっていうの何よ!」


「愛称だ。会って三日目くらいから心の中で勝手にそう呼んでいただけだ。なんかそんな雰囲気がする」


 どんな雰囲気だ。ノクティアは眉をヒクつかせて、唇を拉げる。


「……で、その呼び方は嫌か?」


「愛称なんて付けられた事ないから分からない、別に嫌ではないけど……」


「じゃあ、ノッティって呼んで良いんだな?」


 嫌ではないけど、何だか恥ずかしい。ノクティアが小声で言えば、彼は唇を綻ばせて軽い笑いを溢した。


「ただ、私はあんたが裏切ったって思ってる」


 少しショックだった。と、そんな言葉を伝えると、彼はノクティアの前に屈んで視線を合わせて首を傾げる。


「どうしてそう思った?」


「……あんたは私かエリセがいれば爵位を継げる。この家を相続できる。何だか、自分の意思ばかり押しつけられた気分だよ。確かにあんたが私に悪意や敵意を向けていないのは分かるし。それに、あんたは私が悪い魔女だと知っているのに、力になるって言ってくれた。だから信じたかったけど」


 ノクティアが素直に言葉にすると、彼は少しばかり眉を寄せた。


「そう感じたか。ごめんな。ただ……俺の身分上、婚姻だけはどうにもならない。エリセお嬢様の好意を断って、おまえを選んでここに来るまでのあの流れは完全に茶番で半分くらい嘘を吐いたのは認めるが……」


「そうだろうね。数日で知ったあんたの性格を考えると、そうだろうなとは思ったよ。さっきの気持ち悪いもの」


 思い出すだけで不気味だ。ノクティアが目を細めれば、ソルヴィは「だよな」なんて苦笑いを浮かべた。


「だが生理的に受け付けない女と添い遂げるより、たとえ俺を愛さないにしても一緒に居て楽しい女を妻にしたいと思っただけだ。それに、おまえの事は悪い魔女とは思っていない。だから、ノッティが俺を愛せないにしても、形だけの結婚でも良いだろうと思う」


 気楽にやっていければいいと思う。そんな風に付け添えて、ソルヴィはノクティアの手を握った。


「ノッティ、俺と結婚してくれるか?」


 真剣そのものの瞳を向けて言われるので、顔面に熱が攻め寄せる。

 これは、形だけのもの。茶番だと言った。半分くらい嘘だと彼は言ったが、いったいどこからが本当なのだろう。


 ────私は、この一週間ノクティアと過ごして……彼女を愛してしまいました。運命だと感じ必ず幸せにしようと心に決めました。


 先程言った、彼の言葉が巡り巡って頭から離れない。

 何も応える事ができなかった。いまだにどうしたら良いかだって分からない。ノクティアはソルヴィの手を戸惑いながらも握り返した。


 ---


 そうして離れでの二人暮らしが始まった。朝昼晩と食事は一緒に取るが、幸いにも部屋が二つ、ベッドも二つあるので、それぞれのクローゼットがある部屋で寝ている。


 それからの日々は二日に一回はドレスを着るようになった。とりあえず畏まった服装やコルセットに慣れるようにとの事らしい。

 ちなみにクローゼットいっぱいのドレスやジャンパースカート、ブラウスに靴、装飾品などの半分はビョンダル伯爵家──ソルヴィの家が寄越したもので、もう半分はノクティアの実父のイングルフが金を出し用意したらしい。


 相変わらず父には会っていなかった。

 否、会いたいとも思わなかった。そもそも先が長くない故の家の引き継ぎだ。葬式まで会いたくない……そんな風にノクティアは考えていた。


 そして、ノクティアに寄越された侍女は、ソフィアというあの時の女使用人だった。

 やはり押しつけられた形だろうか。彼女は相変わらずにオドオドとした調子で自信が無い様子だった。

 そんな彼女はドレスの着付けの際、ノクティアにこんな言葉を投げかけた。


「この前の事……私は謝らないといけないと思いました。あの時のあれはどう考えても、エリセお嬢様が悪いと思うのです……スキュルダ様もおかしいと思いました」


 その告白をノクティアは無視した。


 彼女は恐らく悪人ではないのは分かる。

 だが、ここの使用人は総じておかしいのだ。ノクティアはもう信じられなかった。怖かった事ばかりを思い出す。なので、彼女とは必要な事以外、口も訊かなかった。それに、自由に過ごして良いとは言われるが、この離れから出ようともしなかった。あちら側に行けば何をされるかも分からない。


 そんなノクティアが唯一気に入ったのは、この離れの建屋の目の前に広がるこぢんまりとした庭だった。今は季節ではないので花もつけていなが、蔓薔薇に、ラベンダーなどの植物が植えられている。それにベンチがあり、近くにはノリウツギの木があり、紅葉した葉に桃色の花が咲いていた。


 ここでぼんやりと過ごしていのは、少しだけ気持ちが安らいだ。否できる事なら、今も結婚はしたくないし、貧困街に戻りたい気持ちもあるが……。


「イングリッドやジグルドはどうしてるのかな……」


 ぽつりと独りごちると目の前に二匹の青白い蝶が飛び、たちまち二羽のカラスになる。


「なんか、あんたたち久しぶりに見たかも……」


『今、出ちゃまずいかなとか思っていただけですよ。ここで大騒動起こしたばかりですし。変な疑いをかけられたらノクティアが厄介でしょう? 一応空気は読みますよ』


 スキルはそう言って、ノクティアの膝の上に留まる。片やヴァルディは目の前の泥で羽繕いを始め──『よーっす』なんて片方の翼を上げている。相変わらずに適当で自由だった。


 そういえばパンをあげる約束を忘れていた。昼間食べきれなかったパンがある事を思い出し、ノクティアはパンを持ってきて二羽と久しく話している最中だった。


「ノッティ、カラスと喋れるのか?」


 背後から声をかけられてノクティアの肩は跳ね上がる。

 ソルヴィだった。二羽も気付かなかったようで、途端に硬直した。 


 そういえば、暗殺未遂の際に二羽が言っていた。ソルヴィは野生動物のようで気配を察知しにくいと……。

 二羽は消えずにそのままいた。普通のカラスで通すつもりなのだろうか。


「もしかして使い魔か……?」


 そう訊かれて、ノクティアは戸惑いつつ頷いた。もうソルヴィには魔女と知られている。彼らの事を話すのは大丈夫だろうか。


「そうかもしれない……私を魔女にした人が授けてくれたの」


 そう答えると、彼は頷きノクティアの隣に腰掛けた。


「カラスたちの名前は何と言うんだ?」


「私の膝に座ってる子がスキル。あっちにいるのがヴァルディ」


「スキルは知恵の意。ヴァルディは決断の意。ワタリガラスを従えているのか……ノッティ格好良いな」


 格好良い。そんな言葉を言われると思わず、ノクティアが目をしばたたくと、カラスたちも同じ反応を示した。


「知っているか? 神話の戦神は二羽で一対のワタリガラスを従えていた。思考と記憶。それを意味していて、世界中を飛び回ったそうだ。俺も騎士の端くれだ。だからワタリガラスは好きだ。素直に格好良いなと思う」


 ソルヴィはそう言うと、二羽を穏やかな視線で交互に見る。


『おい、ノクティア。おまえの旦那なかなか見る目あるなぁ? 良い奴だなぁ、こいつ……』


 そう言ってヴァルディが鳴くので、ソルヴィは首を傾げた。


「ソルヴィの事、〝見る目がある、良い奴だな〟って言ってるよ」


 そう伝えると、彼は口元を綻ばしてヴァルディを優しく見つめた。

 すると、スキルはソルヴィの脚に移り、ノクティアの方に視線を向けて鳴く。


『ノクティア。あなたの旦那様、よく見るとなかなかに男前じゃないですか』


「今のは?」


 ソルヴィに訊かれるが、ノクティアは目を細めて言うのを拒んだ。

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