──素肌で感じるシーツが気持ち良い。けれど、すぐ傍に感じた体温も分厚い胸板も、ふかふかとした程良い心地の硬さも無くて……。
名残惜しさや侘しさを感じて、ノクティアはゆっくりと瞼を持ち上げた。剥き出しの丸太の天井に木の肌を感じる壁……。
ビョンダルの狩猟小屋で一泊したとぼんやりと思い出すと同時……昨晩の事をたちまち蘇りノクティアがたちまち真っ赤になった。
確かめるように自身の身体を触ると、一糸纏わぬ姿のまま。
あの後、ソルヴィに組み敷かれて、ナイトドレスを脱がされて……。
唇にキスはされず、純潔だって奪われる事も無かった。
しかし、その代わりと言わんばかりに、身体中を撫でられて、キスをされて食まれて舐られて……彼の熱を間近に感じ……。
『ノッティ可愛い、愛してる』
果たして何度囁かれた事か。鼓膜にこびりつくような、低く平らで甘く色っぽい声に息。しつこいほどに続いた甘やかな愛撫を思い出した途端、ノクティアは跳ね起きて、髪を掻きむしる。
頭から湯気が出そうな程だった。いたたまれない程に顔を赤くしたノクティアは頭を抱え込む。
しかし途中から記憶が無い。あまりにしつこく愛情をぶつけられて。
……もうだめ。変になる、おかしくなる。怖い。そうして泣いて懇願する中で意識をすっ飛ばしたような。
「はわ……あぁあ……」
ノクティアが気の抜けた声で悶えた瞬間だった。叩扉も無く部屋の扉が開いた。
「ノッティ起きたか? 朝食でき……」
だが、彼がノクティアを見た瞬間、琥珀の瞳をこれでもかという程に目を開き、口元を覆う。
「だめだ……寝起き可愛い、襲いたくなる」
彼にしては珍しく、ごにょごにょした発言で何を言っているのかよく分からなかった。だが一つはっきり聞き取れた──襲いたくなるとは。
そして、まだ一糸纏わぬ姿のままという事を時差式で気が付いた。ノクティアは耳まで真っ赤に染めて、慌てて掛け布団を抱き寄せる。
「今起きたの。着替えるの、まって!」
「……分かった」
そうして彼はそっとドアを閉じた。
ノクティアはベッドから起き上がり着替えをする。 下着をつけてシュミーズを着て……ふと姿見に映る自分を見て違和を覚えた。
近付いて見ると、鎖骨周辺、ろくに膨らみも無い胸……首筋と、男女の交わりを彷彿させる、赤い花びらの痕が残っていた。
思えば昨晩、彼に口付けられた場所は時々、ほんの少しの痛みがあった。しかしまさかこうも鬱血しているとは。何だかまるで〝この身はソルヴィのもの〟なんて、証明のようで……。
(こ、これ……絶対ソフィアやイングリッドに見られちゃう!)
ドレスの着付けや入浴の時の洗濯物の回収など、侍女は裸を見る事が多い。間違いなく見るだろう。
ソフィアが真っ赤になるのは想像できるが、イングリッドには背中を叩かれそうな気がして仕方ない。別に何も言われやしないだろうが、無駄に頷いてニヤニヤされる様が容易く想像できた。
そう思うと余計に羞恥が込み上げ、ノクティアは慌ててブラウスを着た。
それから二人はほぼ無言の朝食を済ませた。それから掃除を済ませて、支度を済ませて、暫ししてヘイズヴィークへの帰路につく。
狩猟小屋を出る頃には互いに、ほぼいつも通りに戻っていた。とはいえ、ノクティアはどうにもまだ頭に昨晩の彼がちらついていたが。ソルヴィは朝起こしに来た時もそうだったが、極めていつも通り。余裕そうだった。やはり自分より幾つも年上で大人だからか……。
彼の愛馬に乗せて貰い、後ろから抱き締められるのだってもう何度目にもなるのに、今日はやはり胸が爆ぜる。けれど、彼は余裕な表情で……。ノクティアは僅かに振り返り、ソルヴィを見上げて「ずるい」と小さく呟いた。
それをしっかり聞き取れなかったのだろう。ソルヴィは神妙に片方の眉を上げるが、なぜだか嬉しそうに目を細め、ノクティアの目の縁に口付けを落とした。
その帰路の途中、麓の街に立ち寄る事になった。
折角なのでどこかで昼食を食べよう。ついでに、侍女たちと鍛錬を頑張っているであろうジグルドのために土産を買っていくか。そんな風にソルヴィが言うので、ノクティアは頷いた。
入った店は大衆食堂だった。領主とその妻の来店に客だけではなく、店の主人もおかみさんも驚いた表情をする。
しかし、この恰幅の良い林檎のようなまるまるほっぺのおかみさんに関しては、見覚えがある、六月の夏至祭で話したご婦人だ。確か、イングリッドとソフィアに息子を紹介したいだとか言った……。
「おばさん夏至祭ぶり、かな?」
オーダーの時に話かけると、おかみさんはにこりと笑んでくれて、気さくに話しかけてくれた。
それから食事を終え、侍女たちとジグルドへの土産に焼き菓子を買い、屋敷へ帰る事にした。
彼の愛馬は広場の端に留めている。水路の通る細い路地を通っていくのが広場までの近道らしい。少しだけ得意げに教えてくれるソルヴィと談笑しながら歩んでいれば前方から俯いて歩んで来る女性の姿があった。
「失礼、どうぞ」
先に行くようにと、ソルヴィが道を譲り、彼女は会釈をして通り抜ける。
そこで気付いたが、彼女はしゃくり上げるような息をして、頬には大粒の涙が伝っていた。
三十も半ばといった見た目だろうか。質素な色合いの民族衣装を纏い、素朴な雰囲気をした女だった。
すぐにノクティアがソルヴィを見ると彼も同じように神妙な顔でノクティアを見た。
ふと振り返ると、彼女は路面脇の水路の溝を懸命に見ている。何か大切なものでも落としたのだろうか。
もう一度ノクティアはソルヴィを見ると彼は頷き、二人はすぐに踵を返して女性の元へ歩み寄った。
「あの、どうされたのですか?」
ソルヴィの問いかけに彼女はビクリと背を大袈裟に跳ねさせた。
振り返り、顔を上げた彼女の目は案の定充血して真っ赤だった。緑色の瞳は溺れるように潤っていていた。しかし、今すれ違い、話しかけたのが領主とは思いもしなかったのだろう。彼女は目を大きく瞠り、口をはくはくと動かし、驚きを隠せない表情を浮かべていた。
「落とし物……?」
ノクティアが小首を傾げて訊けば、彼女は頷き、ソルヴィとノクティアに頭を垂れた。
「すみません、無我夢中になるあまり領主様と奥様だったとは……どうかご無礼を」
「いやいや。そこは気にしないで欲しい。どうしたんだ、何か困っている事があるなら力になろう。何を失くしたんだ?」
ソルヴィが穏やかに訊くと彼女は、またも深々と頭を下げる。それからややあって「指輪です」と小さく告げた。
それは細い銀の指輪で、幾何学模様の細工が施されたものだと。
「私の夫だった人がくれたものです。だいぶ黒ずんでしまっていますが、とても大切なもので……」
彼女の言葉が妙に引っかかったのはソルヴィも同じだっただろう。
「夫だった人……」ソルヴィは復唱し、眉を寄せる。
「ええ、木こりだったのですが……一昨年、仕事中に倒木事故で亡くなりまして」
それを聞いて、ソルヴィもノクティアも沈痛な表情を浮かべた。
「失敬、辛い事を思い出させた」
「いえ、とんでもないです」
彼女は首を横に振り、涙を拭って優しく微笑む。しかし故人から──それも夫から貰ったとなると、とてつもなく大切なものに違いない。
「ねぇ。もう自分の家の中は見たんだよね。あと、多分今って……歩いてきた場所を辿って、見ているかんじなんだよね?」
ノクティアが訊くと彼女は頷いた。
しかしそれで見つからないとなると、誰かに拾われた可能性も浮かぶ。
「じゃあ、自警団とか、通った道にあるお店の人には?」
「一通り聞きました……だけど見つからなくて」
その言葉にノクティアは腕を組んで思案顔になる。
装いや立ち振る舞いなどを見るからに、彼女は一般民だ。
……一般民の手に届く銀というのは、不純物が混ざり純度が低いもの。だが、この銀は扱いやすい事もあって、かなり流通している。
その価値の低さは、盗品や落とし物を売りさばいていたノクティアだからこそ分かっている。拾ったとしても大した金額にならない。買い取りに出したとしても大衆食堂で昼食を一食食べるのに届くか届かないかといった程。
そもそもだが、このヘイズヴィークには、浮浪者やならず者はいない。見かけた事も無い。だから盗む可能性は極めて低い。
(自警団の詰め所に届いていないってなると……)
その時、ノクティアはふと、あるイメージが沸き上がる。
──キラキラと光るものに惹かれる、それが好きという存在を。闇夜に光る鋏にさえ気付き惹かれた……。
ノクティアはハッと顔を上げた。
この失せ物探しに、自分ほどの適任者はいないだろう。否、自分なら探し出させる可能性が高い。
「ねぇ。私、その失せ物探し、力になれるかもしれない」
──ソルヴィ手伝ってもいい? ノクティアはソルヴィを見上げて聞く。
「……ああ、力になってやろう」
彼は即座に頷いてくれた。